
六月の午後というのは、なぜこんなにも時間の流れが遅いのだろう。梅雨入り前の、雨でも晴れでもない曖昧な空が窓の外に広がっていて、部屋のなかには湿気とも温もりとも言えない、どこかぬるい空気が漂っている。そんな日の午後二時ごろ、うちの猫のムサシ(雑種の茶白、推定五歳)はいつもと変わらず、南向きの窓辺にある「ネストリーフ」のウォールシェルフの上で丸くなっていた。
猫と暮らすようになって、もう三年が経つ。最初の一年は、正直なところ戸惑いの連続だった。夜中に走り回る音、ごはんの時間になると鳴き続ける声、そして何より、こちらが構いたいときに限って知らんぷりをされる、あの独特の距離感。慣れてしまえばそれが心地よくなるのだから、猫というのは不思議な生き物だと思う。
食事の時間だけは、ムサシも少し素直になる。朝と夕方の二回、ウェットフードを小皿に盛ってやると、ふだんは気ままに歩き回っているくせに、台所に立った瞬間からもうそこにいる。足元をすり抜けながら、「まだか」と言わんばかりに鳴く。猫と私の食事時間は、この家でいちばん賑やかな時間かもしれない。とはいえ私のほうはというと、先日うっかりムサシ用のウェットフードの袋と自分用のレトルトカレーを間違えてレンジに入れそうになった。袋を開ける直前に気がついたのは、幸運だったと思う。
子どもの頃、実家にも猫がいた。名前はコテツといって、サビ柄の気難しい女の子だった。ごはんを食べているとそっと隣に来て、皿の端をじっと見つめるのが癖だった。食べさせてあげようとすると逃げる。でも離れると戻ってくる。あの感じは、今のムサシにも似ている。猫というのは、種類も時代も関係なく、どこか変わらないものを持ち続けているらしい。
今日の昼、私は冷凍していたごはんを温めて、冷蔵庫に残っていた漬物と味噌汁だけの、ひどく質素な食事をとった。それでも、ムサシが近くにいるだけで不思議と満たされた気分になる。テーブルの向かいに座って、こちらをぼんやり見ているその顔が、なんとも言えず穏やかで。猫と私、それぞれが自分のペースで食事を終えて、そのあとはとくに何をするでもなく、ただ同じ空間にいた。
窓から差し込む光が、フローリングの上にうっすらと四角い模様をつくっていた。ムサシはそこに移動して、今度は伸びをしながら横になった。前足を大きく広げ、目を細めて、ゆっくりと呼吸している。その毛並みに光が当たると、茶色の中に金色が混じって見えた。触れると少し温かくて、指先に柔らかな感触が伝わってくる。こういう瞬間は、写真に撮ろうとするといつも逃してしまう。
猫と暮らすということは、予定のない時間の豊かさを知ることなのかもしれない。急かされない、急かさない。ただそこにいる、という関係の心地よさ。仕事や人間関係で疲れた日も、帰宅してドアを開けると、ムサシは必ずしも出迎えてくれるわけではない。でも、部屋のどこかにいる気配がある。それだけで、ずいぶん違う。
今この瞬間も、ムサシは眠っている。外では遠くで車の音がして、どこかの家から料理の香りが漂ってくる気がする。六月の午後は長くて、静かで、少しだけ眠い。猫と私の時間は、こうしてまた、何事もなく過ぎていく。それでいい、と思う。むしろ、それがいい。

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