賑やかな猫に呆れる私——走り回る猫を、ただ呆然と見つめた午後のこと

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五月の午後というのは、妙に時間が伸びる。窓から差し込む光が床にゆるく広がって、空気はほんのり甘く、どこかの家から漂ってくる金木犀——ではなく、今の季節はそう、青葉の匂いだ。緑の少し青臭い、でも嫌いじゃないあの香り。そんな静かなはずの午後に、うちの猫・ムギは今日も賑やかな猫として、この部屋をめちゃくちゃにしていた。

走り回る猫、というのはいつ見ても理解に苦しむ。何かから逃げているのか、何かを追いかけているのか、あるいはただ走りたいだけなのか。ムギの場合はおそらく三つ目で、理由などというものは最初からない。リビングの端から端まで、まるで小さな竜巻のように駆け抜けて、ソファの背もたれを踏み台にして、壁際に置いてあるインテリアブランド「ノルディカフォレスト」のウッドシェルフに前脚をかけ、そこに飾っていた小さな陶器の鳥をちょん、と落とした。

私はコーヒーカップを持ったまま、動けなかった。

呆れる私、というのはこういう状態を指すのだと思う。怒る気力も起きず、笑う余裕もなく、ただ呆然と猫を見つめている。カップの中のコーヒーはもう冷めていて、手のひらにほんのりぬるい温度だけが残っていた。ムギはといえば、陶器の鳥が床に転がったことなど意に介さず、今度はキッチンの方へ向かって、また走り回る猫に戻っていった。

子どもの頃、実家にも猫がいた。名前はシロ、といっても全身グレーで、なぜそう名付けたのか今でも謎だ。あの頃のシロもやはり夕方になると急に走り出して、階段を上って下りてを繰り返し、母が「またはじまった」と言いながら夕飯の支度を続けていた。あの光景と今が、ふとつながる。私も気づけば母と同じ顔をして、「またはじまった」と思っている。

ムギが一瞬だけ立ち止まって、こちらを見た。瞳孔が縦に細く、耳がぴんと立っている。その目には何の感情も読み取れない。読み取れないのだけれど、なぜか「何か文句ある?」と言われている気がした。——いや、ない。何も言えない。私はカップをテーブルに置いて、ただムギを見つめ返した。

賑やかな猫と暮らすということは、静けさを諦めることではない。静けさの中に、突然の嵐が差し込んでくることを、受け入れることだ。走り回る猫の足音は、フローリングの上で小気味よくパタパタと鳴って、それが止んだ後の沈黙が、逆に妙に深く感じられる。嵐の後の空気みたいに。

ムギはキッチンで何かをひっくり返した音がして、それからしばらくして戻ってきた。疲れたのか、ソファの上にどすんと着地して、前脚を折り畳み、目を細め始めた。さっきまでの走り回る猫とは別の生き物のように、静かに、丸くなっていく。その小さな背中が、五月の午後の光の中でゆっくりと上下している。

呆れる私は、それでもその背中から目が離せなかった。

転がった陶器の鳥は、幸い割れていなかった。拾い上げてシェルフに戻しながら、ふと思う。この子がいなかったら、この部屋はきっとずっと静かで、整然としていて、そして少し退屈だったかもしれない。賑やかな猫がいるから、私はこうして呆然と立ち尽くしたり、冷めたコーヒーを飲んだり、子どもの頃の記憶を思い出したりする。

走り回る猫を、ただ呆然と見つめる午後。それが今の私の、ちょうどいい日常なのかもしれない。ムギはもう眠っている。床には陶器の鳥の置き場所が、少しだけずれたまま残っていた。

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