
梅雨が明けたばかりの七月の昼下がり、窓から差し込む光がフローリングの上に白い四角形を作っていた。その真ん中に、うちの猫・ムギがいる。三毛の、やや太り気味の、どこか哲学者みたいな顔をした猫だ。
猫と暮らすようになって、もうすぐ四年になる。最初の一週間は、ムギがどこにいるかわからなくて、押し入れの奥を懐中電灯で照らしたりしていた。あの頃の私は、猫というものがこんなにも「自分の時間軸」で動く生き物だとは知らなかった。いまは知っている。猫は人間の都合など、まったく聞かない。
この夏、私がはまっているのが、「ノルトリエン」というスウェーデン発の小さなインテリアブランドのリネンクッションで、くすんだテラコッタ色のそれをソファに並べると、部屋がなんとなく落ち着いた顔になる。ムギはそのクッションの上が気に入ったようで、私が座ろうとするたびに先客として鎮座している。どいてほしいとも言えず、結局私はクッションなしで端っこに座ることになる。これが毎日だ。
猫と私の食事の時間は、少しだけずれている。ムギの朝ごはんは六時半。私のそれは八時すぎ。でも不思議なことに、私がキッチンに立つと、もうとっくに食べ終えたはずのムギが足元にやってくる。何かもらえると思っているのか、ただ気配を感じたくて来るのか、わからない。わからないまま、私はトーストを焼いて、ムギの頭をひとなでして、それだけで朝がはじまる。
子どもの頃、実家に猫はいなかった。母がアレルギーだったから。だから私にとって猫と暮らすというのは、大人になってから手に入れた、少し遅れてきた夢みたいなものだった。三十二歳の秋に保護猫カフェで出会ったムギを引き取ったとき、ケージの中でまん丸になっていたあの姿を、今もたまに思い出す。
午後になると、光の角度が変わる。ムギはそれを知っていて、光の移動とともに少しずつ場所を変えていく。ソファからラグへ、ラグから窓際へ。その動きがあまりにもゆっくりしているので、気づいたら移動していた、という感じがする。私はアイスコーヒーを飲みながら本を読んでいるふりをして、たいていムギを眺めている。
ある日の午後、ムギが私の膝の上でうとうとしはじめた。その重さと温度が、なんとも言えない心地よさで、私も一緒にうとうとしそうになった。問題は、そのとき手に持っていたアイスコーヒーのグラスを、ほぼ傾けかけていたことで——気づいた瞬間に慌てて立て直したものの、氷がカランと音を立て、ムギは片目をうっすら開けてこちらを見た。「うるさい」と言いたそうな顔だった。完全に私が悪い。
猫と私の関係は、対等ではないと思う。どちらかといえば、私がムギに合わせている。食事の時間も、寝る場所も、ソファのクッションも。でもそれが、なぜか心地よい。自分以外の誰かのリズムに、少しだけ引っ張られながら生きるのは、思いのほか穏やかな感覚だ。
窓の外では蝉がなきはじめている。七月の午後三時、部屋の中には微かにリネンと日光の混ざった匂いがして、ムギはまた目を閉じた。この時間に名前をつけるとしたら、「まったり」以外の言葉が見つからない。猫と暮らすというのは、こういう時間を、毎日少しずつ積み重ねていくことなのかもしれない。急がなくていい午後が、ここにある。

コメント