猫と私の、まったり春昼——食事と眠気とちいさな幸福

Uncategorized

ALT

四月の午後というのは、光がやわらかすぎて困る。

窓から差し込む春の日差しが、フローリングの上にうすい四角を描いていた。その四角のど真ん中に、うちの猫——麦茶色のキジトラ、名前はムサシ——が、まるで計算したかのようにおさまって丸くなっている。猫と暮らすようになってから三年が経つけれど、あの「光の当たる場所を見つける精度」だけは、いつまで経っても感心させられる。

昼ごはんを終えたあとの、あの独特のけだるさの中で、私もソファに沈んでいた。今日の食事は、近所のスーパーで買ってきた豆腐と、冷蔵庫の奥に残っていたしめじで作った味噌汁と、炊きたてのごはん。それだけ。でも不思議なことに、猫と暮らしていると、そういう質素な食事がやけにおいしく感じられる。ムサシが食器棚の上から私の食事の様子をじっと眺めていて、その視線がなんとなく「品評」っぽいのだ。あいつ、たぶん私の食生活を心配している。

食後のコーヒーを淹れようとキッチンに立ったとき、ムサシがのそのそと起き上がり、私の足元にまとわりついてきた。ああ、おやつをねだっているのだと思って、棚から「ネコノシアワセ」(架空のブランドだけれど、うちでは定番のウェットフードのことをそう呼んでいる)を取り出した。小皿に盛ってやると、ムサシは一口、二口と丁寧に食べて、それからまた日当たりの四角へ戻っていった。猫にとっての食事というのは、人間のそれとは少し違う。満たされること、そのものよりも、「もらえた」という事実の方が大切なのかもしれない。

コーヒーを淹れながら、子どもの頃のことをふと思い出した。実家にも猫がいて、名前はクロといった。台所に立つ母の背中に寄り添うように座って、じっと見上げていた。あの頃の台所には、みりんと醤油の混ざった甘じょっぱいにおいがいつも漂っていて、クロはその香りが好きだったのか、食事の時間になると必ず現れた。猫と私、というよりも、猫と人間の食事の時間というのは、昔からずっとそういうふうに重なり合ってきたのだと思う。

コーヒーカップを持ってソファに戻ると、ムサシがまたそこにいた。今度は私の隣に来て、ごろんと横になる。その体温が、腿のあたりにじんわりと伝わってくる。春の午後の温度と、猫の体温が重なって、なんだかとてもぼんやりした気持ちになった。コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち上り、窓の外では遠くで自転車のベルが一度だけ鳴った。

ムサシが目を細めながら、私の手の甲に鼻先を近づけてきた。においを嗅いで、それから満足したように目を閉じる。その一連の動作が、あまりにも静かで、あまりにも丁寧で、思わず息をひそめてしまった。猫と私は、言葉を交わさない。それでも、なにかが確かに通じている気がする。

実は、さっきコーヒーを淹れるとき、うっかりフィルターをセットし忘れて粉がそのままドリッパーの下に落ちてしまった。カップの底に茶色い澱が沈んでいるのに気づいたのは、もう半分ほど飲んでしまってからのこと。ムサシはそれを見ていたはずなのに、何も言わなかった。いや、当然だけれど。でも、なんとなく「知ってたよ」という顔をしていた気がする。

猫と暮らすというのは、こういうことの積み重ねだと思う。大きな出来事は何もない。食事をして、眠くなって、日差しの中でうとうとして、また夕方になる。それだけのことが、なぜこんなにも満ち足りているのだろう。ムサシの寝息が聞こえる。私も目が重くなってきた。コーヒーの澱のことは、もう忘れることにした。

この春の午後が、ずっと続けばいいと、ぼんやり思う。

コメント

タイトルとURLをコピーしました