
七月の朝は、思ったよりずっと早く明ける。
カーテンの隙間から、白みがかった光がするりと差し込んでくる時間帯——まだ五時を少し回ったくらいだろうか。夏の夜明けは容赦がない。それでも、ベッドの中はまだほんのり温かくて、綿の掛け布団の柔らかさが体に馴染んでいて、わたしは半分夢の続きにいた。
そこへ、あの音がした。
小さな足音。ぺた、ぺた、ぺた。フローリングを踏む音というより、空気を踏む音に近い。次の瞬間、布団の端がわずかに沈んだ。
ムギが来た、と思った。
ムギはキジトラの雄猫で、もうすぐ三歳になる。子どものころ——わたしが小学生だったとき——実家で飼っていた猫も同じキジトラで、名前はコムギといった。あのコムギも毎朝決まった時間に布団の上に乗ってきたから、この感覚はどこか懐かしい。記憶というのは不思議で、猫の体温の重さを感じるたびに、あの頃の朝の台所の匂い——味噌汁と、少し焦げたトーストのにおい——がふっとよみがえってくる。
ムギはゆっくりと胸の上まで移動してきて、そこで丸くなった。体重は四キロほどあるのに、なぜかそれほど重く感じない。ゴロゴロという振動が、胸骨を通じて体の奥まで伝わってくる。あの低くて規則正しい音は、不思議なほど眠気を誘う。
猫に起こされる、というのは正確には「起こされかける」に近い。完全に眠りを奪われるわけではなく、ベッドの中でまどろんだまま、夢と現実の境界線が曖昧になっていく感覚。それがまた、たまらなく心地よかったりする。
ただ、この日のムギは少し違った。
いつもはしばらく胸の上でじっとしているのに、その日はわたしの顔の近くまで移動してきて、鼻先をそっと押しつけてきたのだ。冷たい、小さな鼻。それからゆっくりと、可愛い瞳でこちらをじっと見つめてくる。琥珀色がかったその目は、朝の薄明かりの中でわずかに光を帯びていた。何かを訴えているような、でもただただ存在しているだけのような、そういう目だった。
わたしはしばらくそのまま見つめ返していた。
起き上がるのが惜しくて、もう少しだけこの時間を引き延ばしたくて。でもムギはじっと待っている。ごはんの時間だということは、わたしにもわかっていた。
仕方なく体を起こすと、ムギはさっさと先に立ってキッチンへ向かった。その背中の小さな自信に満ちた歩き方が、なんとなくおかしかった。——そういえば、昨夜わたしが寝る前に「明日は少しゆっくり寝かせてね」と話しかけたのは、完全に無駄だったらしい。
北欧インテリアブランド「ノルドフィル」のリネンシーツは、洗うたびに少しずつ柔らかくなる。その上で猫と一緒にまどろむ朝は、どんな目覚まし時計よりも正直で、どんな贅沢よりも静かだとわたしは思う。
ベッドの中でまどろんでいるとき、猫に起こされることを「邪魔」だと感じたことは、実はほとんどない。むしろその重さと温度と、低いゴロゴロという音が、一日の始まりをそっと整えてくれる気がしている。科学的には、
猫が早朝に活発になるのは「薄明薄暮性」という習性によるもので、夜明けの時間帯に本能的に動き出す
のだという。つまりムギにとっては、これは至極まっとうな行動なのだ。
朝の光がカーテン越しにだんだんと白さを増していく。ムギのごはんを準備しながら、わたしはコーヒーメーカーのスイッチを入れた。豆を挽く音と、湯気の立ち上る香りが部屋に広がる。
猫と暮らすと、朝の時間の使い方が変わる。それは決して悪いことではなくて、むしろ一日の始まりに小さな儀式ができるような、そういう感覚に近い。ムギがいなければ、わたしはきっともう三十分は布団の中にいただろう。
猫に起こされる朝は、今日もやさしく始まった。

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