猫と私の、静かな食事と、まったりした午後のこと

Uncategorized

ALT

夏の終わりが近づいているはずなのに、部屋の中はまだじっとりと温かい。窓から差し込む夕方四時の光が、フローリングの上に細長い四角形を描いていた。その光の縁に、うちの猫——名前はムク、雑種の茶トラ——が、まるで最初からそこにいたかのようにすっぽりと収まって目を細めている。

猫と暮らすようになって、もうすぐ三年になる。

最初は正直なところ、こんなに生活が変わるとは思っていなかった。朝起きれば足元に重みがあって、キッチンに立てばシンクのふちに前足をかけて覗いてくる。仕事から帰れば、玄関の少し手前で待っている。出迎えているのかどうかも実はよくわからないのだが、とにかくそこにいる。それだけで、なんとなく息がほどける気がする。

食事の時間が、少し変わった。以前は適当に何かをつまんで終わらせることも多かったけれど、今はちゃんとテーブルに座るようになった。ムクが隣の椅子の上で丸まって、私が食べるのをぼんやり眺めているからだ。見られていると、なんとなく雑に食べられない。猫と私の食事は、それぞれ別のものだけれど、同じ空間で同じ時間を過ごしている。それがなんとも不思議で、悪くない。

先日、近所の雑貨店「ノルテ・ハウス」で買ったリネンのランチョンマットを初めて使った日のこと。テーブルに広げた瞬間、ムクがすたすたと歩いてきて、そのまま迷いなくその上に座った。新しいもの、なんでも自分のものだと思っているらしい。私はしばらく眺めてから、仕方なく別のマットを取り出した。ランチョンマットの初使いが猫の昼寝スポットになるとは、購入時には想定していなかった(これが今日のユーモアである)。

猫と私の時間の中で、五感がよく研ぎ澄まされるのは、夕方のこういう時間帯だと思う。ムクの毛並みに指を差し入れると、夏の終わりでも体温が高くて、ほんのり湿っている。喉の奥から低くゴロゴロと鳴る音は、部屋の静寂をかき消すでもなく、むしろ静けさの一部になっていく。窓の外では、誰かが水やりをしているのか、土の匂いがかすかに漂ってくる。

子どもの頃、実家に猫がいた。灰色の小さな猫で、名前はシロという、どこからどう見ても灰色なのにシロという名前だった。縁側でいつも丸くなっていて、私が学校から帰ると必ずそこにいた。大人になってから、あの縁側の光の色をよく思い出す。今、ムクと過ごすこの夕方の時間が、なんとなくあの記憶と重なる。場所も猫も違うのに、光の角度だけが似ている。

猫と暮らすことは、時間の流れ方を変える。急いでいた気持ちが、ふとした瞬間に緩む。ムクが伸びをして、また丸くなる。私はお茶を一口飲む。それだけのことが、どういうわけかとても豊かに感じられる。

まったりとした時間というのは、意図して作るものじゃなくて、猫がそこにいることで自然と生まれるものなのかもしれない。静かな食事の後、ムクの背中に手を当てながら、そんなことをぼんやり考えていた。窓の光がまた少し傾いて、二匹分の影が床に伸びる。猫と私の午後は、今日もゆっくりと、暮れていく。

コメント

タイトルとURLをコピーしました