
窓の外は雨だった。
梅雨が明けたはずの八月の午後に、また空が重たく垂れ込めて、細い雨粒がガラスをつたっていた。エアコンの設定温度を一度下げたのに、湿気だけが部屋の中に残っている。そういう日の空気は、どこか綿のような重さがある。
うちの猫のコムギが、窓辺に座っていた。
ロールスクリーンを半分だけ上げた窓の下、木製のサイドテーブルの上に前足をきちんとそろえて、じっと外を見つめる猫の後ろ姿。尻尾だけが、ゆっくりと左右に揺れている。声もなく、動きもなく、ただそこにいた。
窓の外には鳥や虫、風で動く植物、人の動きなどさまざまな刺激があり、それを観察することが猫にとって興味深い時間と考えられている。
とは知っていても、外は雨だ。鳥も虫も、今日はどこかに身を隠しているだろう。それでもコムギは動かない。
私はソファから腰を上げて、コムギの隣に立った。
雨音がしていた。屋根を打つというより、木々の葉を揺らしながら落ちてくるような、やわらかい音。窓ガラスの向こうに、隣の家の紫陽花がまだ咲き残っているのが見えた。もうとっくに季節は過ぎているのに、濃い青紫の花が、雨に打たれてうなだれていた。
子どもの頃、雨の日が好きだった。学校が早く終わる気がして、傘を差して帰る道のりが、なんとなく特別に感じられた。水たまりを踏むのが好きで、母に何度も怒られた記憶がある。大人になってからは、雨の日は億劫になった。それがいつからなのか、正確には思い出せない。
コムギは私が隣に来ても、振り向かなかった。
外は雨。それだけが、今この窓の向こうにあるすべてだった。一緒に見つめる私も、たいして何も考えていなかった。ただ、同じ方向を向いていた。
少し前、友人から「ノルディカ・ルームス」というインテリアブランドのカタログをもらった。北欧風の家具が並ぶページの中に、窓辺に猫のいる部屋の写真があった。猫はこういう場所にいるべきだ、と思わせるような、静かで美しい一枚だった。うちの窓辺は、そんなに洒落てはいないけれど、コムギはちゃんとそこに収まっていた。
雨の日、窓辺で外を眺めるだけで外に出ようとしない猫の気持ちも、猫の本能が大きく影響している。
そう知ってはいても、外を見つめる猫の横顔には、何か別のものが宿っているように見えてしまう。
コーヒーを淹れようと台所へ行き、戻ってきたとき、コムギは少しだけ体をずらして、私の座る場所を空けていた。本当にそうだったのかどうか、確かめる術はない。でも私はそこに腰を下ろした。マグカップを両手で包むと、じんわりと温度が伝わってきた。陶器の重さと、コーヒーの湿った香り。
雨はまだ続いていた。
コムギが一度だけ私のほうをちらりと見た。それだけだった。すぐにまた、窓の外へ視線を戻した。そのわずかな一瞬に、何かが通り過ぎた気がした。言葉にはならない、ただの気配のようなもの。
私も外を見た。
雨粒が葉の上に落ちて、弾けて、また落ちる。その繰り返し。特別なことは何もない午後だった。それなのに、なぜかこの時間を忘れたくないと思った。写真を撮ろうとスマートフォンを手にしたが、やめた。撮ったら、何かが壊れる気がした。
雨の日は、猫にとってもいつもと違う特別な日。そんなときこそ、一緒に過ごす時間を見直すチャンスだ。
誰かがそう書いていた。チャンスとか、見直すとか、そういう言葉とは少し違う気もするけれど、まあ、そういうことなのかもしれない。
コムギがひとつ、あくびをした。口を大きく開けて、目を細めて、それからまた元の顔に戻った。そのあくびがあまりにも堂々としていて、私は思わず小さく笑った。雨を眺めるこの厳かな時間に、あなたはあくびをするのか。まあ、猫だから仕方ない。
雨音は変わらず続いていた。外は雨。一緒に見つめる私と、外を見つめる猫。それだけの午後が、ゆっくりと過ぎていった。

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