賑やかな猫に呆れる私——走り回る猫を、ただ呆然と見つめた夏の午後

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八月の終わりの午後というのは、どこか時間の流れが緩くなる気がする。蝉の声が遠くなって、風がほんの少しだけ湿気を落として部屋を通り抜けていく、あの感じ。窓から差し込む西日が床に長い四角を描いていて、私はソファに深く沈みながら、ただぼんやりとそれを眺めていた。

そのとき、廊下の奥から聞こえてきた。

ダダダダダダ、という音。

走り回る猫——うちの三歳になる雄猫、ムギが、またはじめたのだ。

ムギは茶白のミックスで、体重は四キロ半。見た目はのんびりした顔をしているくせに、突然スイッチが入る。今日がまさにそうだった。廊下を全力で往復し、リビングに飛び込んできたかと思えば、ソファの背もたれをよじ登り、着地に失敗して私の膝の上に盛大に落下してきた。「いたっ」と声が出たのは私の方で、ムギは何事もなかったかのように床に降り、また廊下へ消えていった。——思わず心の中で「謝罪の一言くらいあってもいいのでは」とツッコんだのは、言うまでもない。

私が猫を飼いはじめたのは三年前の春だ。ペットショップではなく、知人の知人から引き取った。そのとき子猫だったムギは、手のひらに収まるほど小さくて、夜中に鳴くたびに私は布団から這い出して毛布にくるんだ。子どもの頃、祖母の家で飼っていた猫のことを思い出した。あの猫は名前をシロといって、縁側でいつも丸まっていた。賑やかな猫ではなかった。静かで、品があって、夕方になると必ず祖母の隣に座っていた。

ムギは、まったく違う。

賑やかな猫、という言葉がこれほど似合う生き物を、私は他に知らない。

部屋の中を嵐のように走り回り、棚の上のものを落とし、ドアの前で鳴き、水飲み場のそばで待ち伏せをして私の足首に飛びかかる。静かな朝も、眠い夜も、ムギにとっては等しく「遊び時間」らしい。そのくせ、疲れると突然私の隣に来て、体を押しつけるようにして眠る。その温度が、不思議と心地よい。

「ネコ科の生き物は本来、単独行動をする」と、どこかで読んだ気がする。それでもムギは、私がいる部屋に必ずいる。別の部屋に移動すると、しばらくしてドタドタと足音が聞こえてきて、ムギが追いかけてくる。呆れる私がいる一方で、どこかで安心している自分もいる。

今日もムギは走り回る猫に戻り、リビングを三周ほどしたあと、窓辺の日だまりに倒れ込んだ。西日を正面から浴びて、目を細めている。その毛並みに光が当たって、茶色が金色に変わる瞬間がある。香ばしいような、少し土っぽいような、夏の終わりの空気がそこに漂っていた。

私はソファから立ち上がって、台所へ向かった。棚の奥にしまっておいた「ブルーフォグ」というハーブティーの缶を取り出す。友人がくれたもので、カモミールとラベンダーが混ざった、少し甘い香りのする茶だ。お湯を注いで、カップを持ってリビングに戻ると、ムギはもう日だまりの中で目を閉じていた。

呆然と猫を見つめる私。

さっきまであれほど走り回っていたのに、今は完全に静止している。この切り替えの速さに、私はいつも言葉を失う。呆れる、というより、もはや感心に近い何かだ。

ムギの寝顔を見ながら、カップを両手で包む。熱さが指先に伝わってくる。蝉の声がまた遠くなって、部屋が静かになる。

こういう午後が、夏の終わりにはある。

賑やかな猫が、急に静かになる。走り回る猫が、日光の中で溶けるように眠る。呆れる私が、なぜかそっとカップを置いて、ムギの隣に座る。

何も起きていない。でも、何かが確かにあった気がする。そういう時間が、この部屋には流れている。

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