賑やかな猫に呆れる私。走り回る背中を、ただ呆然と見つめていた夜のこと

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梅雨の蒸し暑さが部屋の隅までじっとりと染みこんでくる、六月の夜のことだった。窓を少し開けると、湿った夜風が薄いカーテンをふわりと持ち上げ、どこかの家から流れてくる夕飯の香り——たぶん、生姜を効かせた炒め物——がかすかに鼻をかすめた。私はソファに沈み込んで、冷えかけたハーブティーのマグカップを両手で包んでいた。ブランド名は「ルミナス・ハーブ」という、近所の雑貨屋で見つけた小さなメーカーのもので、ラベンダーとカモミールが混ざった香りが、この季節の夜にちょうどよく馴染む。

そのとき、廊下の奥から、ドタドタという音が聞こえてきた。

うちの猫、麦(むぎ)が走り回る猫であることは、飼い始めた一年前から知っていた。でも、あの夜の賑やかな猫ぶりは、少し次元が違った。廊下を全力疾走し、リビングに飛び込んできたかと思えば、ソファの背もたれを踏み台にして空中を横切り、テレビ台の角で急ブレーキ。そのまま何事もなかったかのように、ぺたりと座って前足を舐め始めた。

呆れる私、という言葉しか浮かばなかった。

麦は三歳になるキジトラで、体格はやや細め、でも脚力だけは異様に発達している。子どもの頃、実家で飼っていた猫のクロは、こんなふうに走り回る猫ではなかった。縁側でひなたぼっこをして、気が向いたときだけこちらに寄ってくる、穏やかな老猫だった。だから麦のこの運動量には、いまだに慣れない。慣れないまま、一年が過ぎた。

マグカップを置いて、私はただ呆然と麦の背中を見つめていた。

走り回ることに飽きたのか、麦はいつの間にかローテーブルの上に乗り、私の方をじっと見ていた。目が合う。琥珀色の瞳が、部屋の間接照明を受けてぼんやりと光っている。そのくせ、表情はまったく読めない。何を考えているのか、何がしたいのか、何に満足しているのか。猫というのは本当に、感情の輪郭が見えない生き物だと思う。

麦がゆっくりと前足を一歩踏み出した。そしてテーブルの端に置いてあった私のマグカップを、鼻先でちょんと押した。カップが数センチ動く。私は「あ」と声を出す間もなく、麦はもう知らないふりをして毛づくろいを始めていた。

——ちなみにカップは倒れなかった。奇跡的に。

その一部始終を見ていた私は、怒る気にもなれず、笑う気にもなれず、ただ静かに麦を見つめ続けた。賑やかな猫と暮らすということは、こういうことなのだ。自分のペースで生きる小さな生き物の傍らで、こちらはいつも少し置いてけぼりにされる。でも不思議と、それが嫌ではない。

夜が深くなると、走り回る猫はぴたりと動きを止めた。麦はソファの私の隣に来て、丸くなった。体温が腿に伝わってくる。思ったより、温かい。カーテンの隙間から入る夜風が、ふたりの間を静かに通り抜けていった。

猫というのは、賑やかな時間と、静かな時間を、自分だけの基準で切り替える。そのリズムに、私はいつも置いてけぼりにされる。でも今夜だけは、そのリズムの端っこに、ちゃんと乗れた気がした。呆れる私のことなど、麦はきっと知らない。それでいいのかもしれない、と思いながら、ラベンダーの香りが残るマグカップを、また両手でそっと包み直した。

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