
七月の夕方、西日がカーテンの端をじわりと染める時間帯に、私はいつもキッチンに立つ。まな板の上でトマトを切る音が、部屋のなかにぽつぽつと落ちていく。その音を聞きつけたのか、ソファの背もたれでうとうとしていたはずのムギが、気づけば足元に来ていた。
猫と暮らすようになって、もうすぐ三年になる。
最初は「一人で食べる食事がこんなに静かなものか」と少し持て余していた。子どもの頃、実家では夕食の時間が一番にぎやかで、テレビの音と父の笑い声と、誰かが箸を落とす音が混ざり合っていた。それが当たり前だと思っていたから、ひとり暮らしの食事はどこか間が抜けて感じられた。ところがムギが来てから、その静けさの質がすこし変わった。
今夜の食事は、だしをきかせた冷奴と、ナスの煮浸し。それから麦茶。豪華ではないけれど、夏の夜にはちょうどいい。冷奴を器に盛りつけながら、ふと「ムギはこのだしの香りが好きなのかもしれない」と思う。彼女はいつも、だしをとっているときだけ台所に現れるから。かつおぶしの淡い煙のような香りが部屋に広がるたびに、どこからともなく現れる。まるで嗅覚だけで生きているみたいだ。
食卓に座ると、ムギはすぐ隣の椅子に飛び乗ってくる。食事中、私の皿をじっと見つめるのが彼女の習慣だ。でも絶対に手を出さない。ただ、見る。その視線の重さたるや、なかなかのものである。一度、あまりにも真剣な顔で見つめられて、思わず「あなたには関係ないですよ」と話しかけてしまったことがある。ムギはそれに対して、ゆっくりと一度まばたきをした。それが返事なのかどうか、いまだによくわからない。
猫と私の夜の食事には、独特のリズムがある。私がひと口食べるたびに、ムギが小さく体勢を変える。その動きが食卓に静かな気配をもたらして、「ひとりで食べている」という感覚をやわらかく包んでくれる。こういう時間を、猫と暮らす人たちはみんな知っているのかもしれない。
食後、私はアイスティーを淹れる。使っているのは「ヴェルデ・ノワール」という小さなブランドの茶葉で、近所の雑貨店でたまたま見つけたものだ。少し青みがかった香りがして、夏の夜にだけ飲みたくなる。カップを持ったままソファに移ると、ムギがすぐに膝に乗ってきた。温度がある場所を本能的に探しているのか、それとも単純に私が好きなのか。どちらでもいいと思っている。
ムギの体は夏でも少し温かい。その重みが膝の上にあると、今日一日の細かい疲れが、どこかへ流れていくような気がする。窓の外では蝉がまだ鳴いていて、部屋のなかには茶葉の香りと、かすかな獣の温もりがある。
猫と暮らすというのは、時間の感じ方が変わることだと、最近ようやくわかってきた気がする。食事ひとつとっても、以前より丁寧に向き合うようになった。急いで食べなくなった。ムギがそこにいるから、という理由だけで、食卓に少しだけ長く座っていられる。
まったりとした時間は、特別なことをしなくても生まれる。ただ、猫がそこにいて、夕暮れの光が差し込んで、だしの香りが漂っていれば、それだけでじゅうぶんだ。猫と私の食事の時間は、いつもそうやって始まり、静かに終わっていく。

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