
梅雨の終わりかけ、七月のある午後のことだった。
窓ガラスに細かい雨粒がつき始めたのは、たしか二時を少し過ぎたころ。最初はほとんど音もなく、ただ空気がじっとりと重くなってきたと思ったら、気がつけばアスファルトが黒く濡れていた。外は雨。そのことに私が気づくより先に、うちの猫のシロは、もうすでに窓の前に座っていた。
シロは三歳になるキジ白の雄で、普段は押し入れの中や洗濯物の山の上で寝ていることが多い。それがこの日に限って、窓辺のクッションにちょこんと前足をそろえ、外を見つめる猫そのものの姿で、雨粒が落ちるガラスをじっと眺めていた。背中が丸く、しっぽの先だけがゆるやかに揺れている。
私はそのとき、台所でほうじ茶を淹れていた。ティーポットから立ちのぼる香ばしい湯気が、梅雨の湿った空気の中でふわりと広がって、なんだか妙に心地よかった。カップを持って居間に戻ると、シロはまだ同じ姿勢でいた。私はその隣に腰を下ろした。一緒に見つめる私と、外を見つめる猫。どちらも、特に何も言わない。
窓の外には、小さな路地がある。いつもなら自転車が通ったり、子どもたちが走り抜けたりするのに、この日はひとけがなく、ただ雨だけが降っていた。雨粒がガラスを伝う音は、耳をすませばかすかに聞こえる。シロの耳はそれより鋭くて、ときおりぴくりと動いた。
ふと、子どもの頃のことを思い出した。実家の縁側で、祖母と二人、雨を眺めていたことがある。祖母はいつも「雨の日はゆっくりしていいんだよ」と言っていた。急かされる日常の中で、雨はなんとなく、立ち止まる理由になった。大人になってからは、そういう時間をわざわざ作ることが難しくなって、気づけばずいぶん経っていた。シロがいなければ、この午後も何かに追われるように過ごしていたかもしれない。
カップを両手で包むと、陶器の温もりが手のひらにじんわり伝わってきた。ほうじ茶の香りが、また少し広がる。シロは相変わらず外を見つめたまま、動かない。
そのとき、ふいにシロが小さくくしゃみをした。一度だけ、ぷしゅっと。そして何事もなかったかのように、またガラスの向こうに視線を戻した。——思わず笑ってしまった。あんなに真剣な顔で見張っていたのに。
雨の日の猫は、不思議と落ち着いて見える。窓に近いほど外の音がよく聞こえるのか、シロの耳はずっと忙しそうに動いていたけれど、体全体はどこかゆったりしていた。インテリアショップ「ノルテハウス」で買った薄いグレーのリネンクッションの上で、彼はまるでそこに根を張ったみたいに、静かにそこにいた。
外を見つめる猫の横顔というのは、なぜあんなに絵になるのだろう。哀愁とも好奇心とも言い切れない、あの表情。雨粒が一筋、ガラスを斜めに流れるたびに、シロの瞳がほんのわずか動く。それを私はただ、横から眺めていた。
特別なことは何もない午後だった。でも、あの静かさはしばらく忘れられないと思う。外は雨で、猫がいて、ほうじ茶が温かくて。それだけのことが、どうしてこんなに満ちた時間に感じられるのか、うまく言葉にはできない。
シロはその後、くしゃみのことなどすっかり忘れたように、窓辺でそのまま眠りについた。雨はまだ続いていた。

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