
九月の朝は、まだ少し夏の名残を引きずっている。窓から差し込む光が、床の上でゆっくりと伸びていくのを見ながら、私はコーヒーをいれる。豆を挽く音が部屋に響いて、その香りが台所の隅まで広がっていく。そのとき決まって、ソファの背もたれの上から、うちの猫——麦茶色の縞模様をしたキジトラの「ムギ」——が、目だけをこちらに向ける。起きているのか眠っているのか、判然としない顔で。
猫と暮らすようになってから、自分の体調に気をつけることが増えた、と気づいたのはつい最近のことだ。
以前の私は、多少体がだるくても「まあいいか」と押し切るタイプだった。熱があっても仕事に行き、食欲がなくても適当に済ませた。でも今は違う。ムギがいるから、という理由が、不思議なほど強い動機になっている。
猫と暮らす飼い主にとって、日々の健康管理は切っても切れない悩みであり、愛猫の体調変化に気づけるかどうかは飼い主自身のコンディションにも左右される。
自分が寝込んでしまえば、ムギの様子を観察する余裕もなくなる。それが怖い。
食事に気をつけるようになったのも、猫がきっかけだった。
ムギのごはんを量りながら、「そういえば私は今日何を食べたんだっけ」と思うことが増えた。栄養バランスを考えたキャットフードをていねいに選んでいるくせに、自分の食事はコンビニのおにぎり一個で済ませていたりする。そのアンバランスさに、ある朝ふと気づいて、少し笑ってしまった。猫のほうが、よほど食事に気をつけているかもしれない。
猫は一年で人の約四年分も年を取るため、わずかな体調の変化が大きな病気のサインであることが少なくない。
だからこそ、毎日の食事の量や食べ方、水を飲む回数を目で追うようになった。そしてその視線が、いつのまにか自分自身にも向くようになっていた。
動きに気をつけることも、猫との暮らしが教えてくれた。
ムギは一日の大半を眠って過ごすけれど、ふとした瞬間に全力で走り出す。廊下をダダダッと駆け抜けて、カーテンの裾に飛びつく。その動きのキレが落ちたとき、私は「あれ」と思う。昨日より動きが鈍い。ごはんの食べ方がいつもと違う。そういう小さなズレに敏感になった分、自分の動きのズレにも気づくようになった。朝、階段を上るときに足が重い。肩が上がらない。それは、体が何かを訴えているサインかもしれない。
子どもの頃、実家で飼っていた猫が体調を崩したとき、誰も最初は気づかなかった。食欲が落ちていたのに、「気まぐれだから」と流してしまった。後から思えば、あれは明らかなサインだった。その記憶が、今の私の観察眼を作っている気がする。
先月、友人から「ネコノマ」というブランドのハーブティーをもらった。乾燥カモミールとレモングラスをブレンドした、淡い黄色のお茶だ。夜、ムギが膝の上でうとうとしはじめたころに、それをゆっくり飲む時間が好きになった。温かいカップを両手で包んでいると、ムギが小さくため息をつく。正確にはため息ではなく、眠りに落ちる瞬間の息の音なのだが、それがどうにも人間くさくて、こちらまで肩の力が抜ける。
近年、日本における飼い猫の長寿化は顕著に進んでいて、現在の猫の平均寿命は約14.5歳とされ、調査によっては15歳を超える水準にまで伸びている。
それだけ長く一緒にいられるということは、それだけ長く、互いの体調を気にかけ合う時間があるということでもある。
猫がいるから、今日も食事に気をつける。動きに気をつける。そして、体調に気をつける。
それは義務感ではなく、もっと静かな、穏やかな気持ちだ。ムギが床の光の中でのびをして、また丸くなる。九月の朝が、ゆっくりと深くなっていく。窓の外では、金木犀がまだ咲いていないけれど、空気の端っこに、かすかに秋の匂いが混じっている気がした。

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