
雨が降り始めたのは、午後の三時をすこし過ぎたころだった。窓の外でアスファルトが濡れていく音がして、空気がひんやりと変わった。部屋の中にいると、その境界線がはっきりわかる。外の世界が少しずつ遠くなって、室内だけが妙にくっきりとしてくる感じ。
そういう午後に、ひとりでいるのが好きだ。
コーヒーを淹れた。豆はいつも決まって「ソレイユ・ブレンド」という名前のもので、近所の小さな焙煎店で買っている。店主のおじさんが毎回「今日のは少し深めに仕上げました」と言うのだけれど、正直なところ、毎回同じ味がする気がしている。でもそれでいい。その一言があるから、また買いに行ける。
カップを両手で包むと、じんわりと熱が伝わってくる。陶器の厚みが心地よくて、少しだけ重い。その重さが、なんとなく今日という日を引き留めてくれるような気がした。
雨の音は一定ではない。強くなったり、急に静かになったり。窓ガラスを伝う水の筋がそれぞれ違う速さで流れていて、しばらくそれを追いかけていた。子どものころ、車の後部座席で同じことをしていたのを思い出す。どの水滴が先にガラスの端まで届くか、勝手に競争させて、勝手に応援していた。誰にも言っていない、ひとりの遊び。あれは何歳のころだったか、もう正確には思い出せないけれど、雨の日になるとふと蘇る。
部屋の隅に置いてある観葉植物が、窓からの光でうっすら透けていた。葉の緑が、曇り空のせいで普段より落ち着いた色をしている。派手さのない、静かな緑。それがなんとなく今日の気分に合っていた。
こういう日は、何かを「しなければ」という気持ちが薄れる。
タスクリストを開きかけて、閉じた。別に今日じゃなくてもいいものばかりだった。いや、本当はそうじゃないかもしれないけれど、少なくとも今この瞬間はそう思えた。それだけで十分だと思う。
雨の日の静けさは、何かを教えてくれるわけじゃない。ただそこにある。音として、温度として、光の質の変化として。それを受け取るかどうかは、こちら次第だ。
コーヒーを一口飲んだら、思ったより熱かった。舌の先をすこし火傷した。あわてて息を吹きかけたけれど、すでに遅かった。こういうとき、毎回同じことをする。飲む前に必ずフーフーしようと心に誓って、次の日にはもう忘れている。学習能力の問題なのか、それとも期待を手放せない性格の問題なのか。たぶん後者だと思う。
窓の外で、傘を持たずに走っている人がいた。カバンを頭の上に乗せて、それでも全然間に合っていない。背中がすっかり濡れているのに、なぜか少し楽しそうに見えた。雨に降られることが、たまに悪くない日もある。
静かな午後は続く。
コーヒーカップが少しずつ冷めていくのを感じながら、何も考えていないような、でも何かをずっと感じているような時間が流れていた。こういう時間を「無駄だ」と思っていた時期もあった。もっと何かをしなければ、もっと前に進まなければ、と。でも今は違う。この静けさの中にいることが、自分を取り戻す行為のひとつだと知っている。
雨がまた少し強くなった。窓に当たる音が変わって、部屋の中がさらに静かになった気がした。
外の音が増えるほど、内側が静かになる。不思議な逆転が、雨の日には起きる。それを言葉にするのは難しいけれど、体はちゃんと知っている。こういう感覚は、説明しなくてもいいものだと思っている。
冷めかけたコーヒーを、もう一口。今度はちゃんと冷ましてから飲んだ。

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