外は雨、猫と一緒に見つめる静かな午後のこと

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雨の音というのは、どこか記憶の奥を揺らす。今日の午後、窓のそばに腰を下ろしたとき、ふとそんなことを思った。

外は雨だった。四月の半ばを過ぎても、こういう日はある。桜がとっくに散ったあとの雨は、春というより、どこか初夏の手前の気配を帯びていて、空気がやわらかく、それでいて少し重い。窓ガラスには細い雫がいくつも筋を引いて、庭の石畳をじわりと濡らしていた。

うちの猫——名前はシロ、といっても白くはなく、薄いグレーのキジ柄なのだが——は、もうずいぶん前からそこにいた。窓枠の内側に前脚を揃えて座り、外を見つめる猫の横顔が、静止画のように動かない。耳だけがときおり、雨粒の音に反応してわずかに傾く。それ以外は、まるで時間が止まったようだった。

私も、なんとなくその隣に腰を下ろした。一緒に見つめる私と猫。特に示し合わせたわけでもなく、ただそうなった。

子どもの頃、雨の日が好きだった。学校が早く終わる気がして——実際にはそんなことはないのだけれど——なんとなく外の音が近く聞こえる気がした。実家の縁側で、祖母が淹れてくれた番茶を飲みながら、雨粒が庭の葉っぱを叩く音を聞いていた記憶がある。あの湿った土の匂いと、番茶の少し焦げたような香りが、今でもときどき鼻の奥によみがえる。

今日の雨もよく似ていた。

手元には、最近お気に入りの「ヴェルドワーズ」というハーブブレンドのお茶がある。フランス語っぽい名前だが、実際は国内の小さなブランドで、乾燥レモングラスとローズマリーが主体の、少し薬草っぽい香りのするやつだ。マグカップを両手で包むと、じんわりと温かさが手のひらに広がる。その熱さが、今日みたいな日にはちょうどよかった。

シロは動かない。

外を見つめる猫の目には、何が映っているのだろう。雨粒か、揺れる枝か、それとも私には見えない何かか。猫の視線というのは、いつも少しだけ遠くを見ているような気がする。人間の目線とは違う角度で、世界を切り取っている。

私はそっと、シロの背中に手を置いた。しっとりとした毛並みが指先に触れる。体温が伝わってくる。シロは少しだけ振り返り、私の顔を一秒ほど見てから、また窓の外に視線を戻した。まるで「邪魔しないで」と言っているようで、でも逃げるわけでもない。そういう距離感が、猫との暮らしの核心だと思う。

雨はしばらく続いた。窓の外では、隣家の軒先に下げられた風鈴が、風に押されてかすかに鳴った。四月に風鈴というのも妙な話だが、そういう家もある。シロの耳がまた、ぴくりと動いた。

ところで、今日の午後、私はマグカップを窓枠に置こうとして、うっかり猫の尻尾の上に少しだけ肘をついてしまった。シロは驚いた様子もなく、ただじろりと私を見た。あの目つきは「まあ、許してあげる」と言っていたのか、それとも「次はないよ」だったのか、いまだによくわからない。

雨の日、外は雨、一緒に見つめる私と猫。それだけのことなのに、なぜかひどく満たされた気持ちになる。言葉にしようとすると、するりと逃げていくような感覚だ。でも、こういう午後があることを、ちゃんと覚えておきたいと思った。

シロはまだ、窓の外を見ている。雨粒が、静かに石畳を叩き続けていた。

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