
梅雨の午後というのは、どこか時間の流れ方が違う。光がやわらかく拡散して、輪郭がぼんやりする。部屋の中にいても、外の湿気がガラス越しに伝わってくるような、そういう日。
うちの猫——名前はムギ、三歳になったばかりのキジトラ——が、いつものように窓辺に陣取っていた。外は雨だった。細かくて、しとしとと音もなく降り続けるタイプの雨。ムギはそれをじっと見ている。尻尾の先だけが、ゆっくりと左右に揺れている。
私もなんとなく、その隣に腰を下ろした。特に理由はなかった。ただ、ムギが外を見つめる横顔があまりにも真剣で、つられてしまったのだ。
窓ガラスには細かな水滴がついていて、それぞれが小さなレンズのように外の景色を歪めていた。向かいの家の紫陽花が、水滴ごしにぼんやりと青く滲んでいる。雨粒がガラスを伝う音は、ほとんど聞こえない。聞こえるのは、遠くで雨が葉を叩く、くぐもった音だけだ。
子どものころ、こういう雨の日が好きだった。学校が終わって帰ると、台所から煮物の匂いがして、母が「今日は早かったね」と言う、あの感じ。特別なことは何もないのに、妙に安心した。あの感覚に似ている、と思った。今この部屋にいる、この静けさが。
ムギがふと顔を動かして、私の方を見た。それからまた、何事もなかったように外に視線を戻した。その仕草が、なぜかひどく落ち着いた。一緒に見ている、という感覚がたしかにあった。外を見つめる猫と、一緒に見つめる私。ただそれだけのことなのに。
コーヒーを淹れようと思って立ち上がったとき、うっかりブランケットの端を踏んで、危うく転びそうになった。ムギはそれをちらりと一瞥して、また窓の外に目を戻した。「見てたよ、ちゃんと」と言いたげな、あの涼しい顔で。
部屋の隅には、先月買ったばかりのスツールがある。北欧インテリアブランド「フィヨルネスト」のもので、ナチュラルウッドの座面が気に入って選んだ。そこにブランケットをたたんで置いておくと、ムギが必ずそこで昼寝をする。自分のものだと思っているらしい。まあ、そういうことにしておく。
雨はまだ続いていた。外は雨で、空はひとつながりの灰色だった。でも、その灰色がいやに美しく見えた。ムギの目に映っているものと、私の目に映っているものは、きっと違う。猫には紫外線が見えるとか、色の識別が人間とは異なるとか、そういう話を読んだことがある。ムギはあの雨をどんな色で見ているのだろう、とふと思う。それは永遠にわからないことだけれど、それでもいい気がした。
同じ窓の前に座って、同じ方向を向いている。それだけで、何かが通じている気がする。言葉のいらない時間というのが、確かにある。
外を見つめる猫の横顔を、私はしばらく眺めていた。ムギの耳がぴくりと動いた。どこかで車が通ったのかもしれない。それとも、雨音の中に何か聞こえたのか。私には何も聞こえなかったけれど、ムギにはきっと聞こえていたのだろう。
コーヒーはすっかり後回しになった。窓の外では、紫陽花が雨に打たれながら、静かに揺れていた。

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