
夏の朝はいつも、カーテンの隙間から入り込む白い光で始まる。まだ七時にもなっていないのに、部屋の中はもうじんわりと温かくて、扇風機の風が首筋をかすめるたびに、少しだけ息をつける気がした。
その光の中に、ムギがいた。
ムギというのは、うちに来て三年になるキジトラの猫だ。体重は四キロちょうどで、耳の先だけがほんの少し折れている。その折れ具合がどうにも愛らしくて、拾ってきた日から今日まで、飽きずに眺めている。猫と暮らすとはこういうことなのかもしれない。飽きない、ということ。
ムギはいつも、朝の食事の時間になると台所の入り口に座って待っている。鳴きもせず、ただじっとこちらを見る。その視線がやけに静かで、なんとなく急かされているような、でも急かされていないような、妙な気持ちになる。冷蔵庫を開ける音がするとすっと立ち上がり、足元をするりと通り抜けていく。そのたびに踏みそうになって、私はいつも「あぶない」と小声で言う。ムギは気にしない。
猫と私の食事は、ほぼ同時に始まる。ムギが白いセラミックのボウルに顔を埋めている間、私はトーストを焼いて、アイスコーヒーを作る。コーヒーは「ノルドブレンド」という北欧系の豆をずっと使っていて、少し深煎りで、香りが強い。氷を入れたグラスに注ぐと、ちりちりと音がして、部屋に苦みのある涼しさが広がる。ムギはコーヒーの香りが苦手らしく、いつもそのタイミングで少し離れた場所に移動する。失礼な話だと思いつつ、それもかわいい。
食べ終わったムギは、決まって窓際のラグの上に移動する。インテリアショップ「ルームフォグ」で買った、くすんだテラコッタ色の薄いラグで、夏でも敷いたままにしている。ムギはそこで体を丸め、目を細め、やがてゆっくりと瞼を閉じていく。その様子を見ていると、こちらまで眠くなってくる。猫のうとうとする姿には、不思議な伝染力がある。
子どもの頃、実家にも猫がいた。名前はクロで、雑種の黒猫だった。クロは縁側が好きで、夏の昼間はいつもそこで伸びていた。私はその隣に寝転んで、一緒にぼんやりしていた。何もしない時間が、あんなにも豊かだと知ったのはあの頃だったかもしれない。猫と私の関係は、子どもの頃からずっと、どこか似たような形をしている。
ムギが寝ている間、私は本を読んだり、何もせずぼんやりしたりする。特別なことは何もない。それでいい、と最近は思えるようになった。猫と暮らすようになってから、「何もしない時間」への罪悪感が薄れた気がする。ムギが堂々と昼寝をしているのを見ていると、休むことは正しいことだ、という確信に近いものが生まれてくる。
午後になると日差しが強くなり、ラグの上の光の模様が少しずつ動く。ムギはその光を追うように、ごく小さく体の向きを変える。眠りながら、それをする。たぶん無意識だ。そういう細かい動作を、私はいつも見ている。
猫と私の時間は、ほとんど言葉がない。それでも何かが通じているような気がして、それが心地よい。ムギが膝の上に乗ってきたとき、その重みと温かさは、どんな言葉よりも確かなものに感じられる。爪が少し立つこともあるけれど、それも含めて、この時間が好きだ。
猫と暮らすことは、日常をゆっくりにしてくれる。急がなくていい、と教えてくれる。ムギはそんなことを考えていないと思うけれど、それでもそう感じる。夏の、長くて静かな午後に、ただ猫と並んでいる。それだけで、今日はじゅうぶんだと思える。

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