
五月の終わりの午後三時というのは、妙に時間が間延びする。窓から差し込む光が、フローリングの上に細長い四角形を描いていて、その真ん中にルナはいた。お腹を上に向けて、完全に溶けている。
猫と暮らすようになって、もうすぐ三年が経つ。保護猫カフェで出会ったキジトラのルナは、最初の一週間こそ押し入れの奥に隠れていたけれど、今ではこうして光の中で無防備にひっくり返っている。その変化を思うと、なんだか胸の奥がじんわりする。
私が台所に立つと、ルナは必ず起きてくる。食事の気配を察知する能力は、ほとんど霊感に近い。フライパンに油を引いた瞬間、もう足元にいる。今日の昼ごはんは、鶏肉とトマトのシンプルな煮込みだった。玉ねぎを炒める甘い香りが部屋に広がると、ルナはくんくんと鼻を鳴らして、それから興味を失ったように欠伸をした。人間の食事には関係ないと判断したらしい。そういう割り切りの速さが、なんとも猫らしい。
猫と私の食事は、いつも少しずれている。私がテーブルに着くころ、ルナはもう自分のごはんを食べ終えて、毛づくろいを始めている。ちらりとこちらを見て、また前足を舐める。「お先に」とでも言いたいのかもしれない。
思えば子どもの頃、実家では猫を飼えなかった。父がアレルギーだったから。だから猫のいる暮らしというのは、ずっと憧れの絵のようなものだった。近所に住んでいたおばあさんの家に、三毛猫がいて、縁側でそっと撫でさせてもらうのが楽しみだった。あの猫の背中の温度を、今でもたまに思い出す。
ルナが膝に乗ってくるのは、たいてい私がソファに座って本を開いたあとだ。こちらが「来てほしい」と思っているときには絶対に来ない。完全に油断したころ、ふわっと重さがのしかかってくる。その重さが、四キログラムちょうどくらい。ずっしりと温かくて、ゴロゴロという音が膝から体全体に伝わってくる。
先日、インテリアショップ「ノルダコ」で買ったリネンのブランケットを膝にかけていたら、ルナはそのブランケットごと爪を立てて踏み踏みし始めた。買ったばかりだったので内心「あっ」と思ったけれど、顔は笑っていた。そういうものだ、猫と暮らすというのは。
夕暮れになると部屋の光の色が変わる。オレンジがかった柔らかい光の中で、ルナの毛並みが金色に見える瞬間がある。その色を見るたびに、今日も一日終わったな、と思う。特別なことは何もない午後だったけれど、それでいい。猫と私の時間は、そういう「何もない」で満ちている。
窓の外では、五月の風が若葉を揺らしていた。ルナは目を細めて、その揺れをじっと見ていた。追いかけようとするわけでも、鳴くわけでもなく、ただ見ている。私もそれにならって、しばらく何もしないでいた。
猫と暮らすことで、私は「まったりすること」の価値を覚えた気がする。何かを急いで埋めなくていい時間。沈黙が気まずくない空間。それはルナが教えてくれたことで、言葉ではなく、ただそこにいることで示してくれたことだった。
ゴロゴロという音が、また静かに部屋に戻ってくる。今夜の食事は何にしようか、と考えながら、もう少しだけこのまま動かないでいようと思った。

コメント