賑やかな猫に呆れる私と、それでも愛おしい午後のこと

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五月の午後というのは、妙に時間の流れが緩い。窓から差し込む光がフローリングの上にうっすらと白い帯を作り、その中に細かな埃がゆっくりと漂っている。そういう静かな時間に、決まって彼は動き出す。

うちの猫の名前はムギ。三歳になる茶トラのオスで、体重は五キロ弱。見た目はずんぐりとしていて愛嬌があるのだが、その内側にはいったい何がつまっているのか、突然スイッチが入ったように走り回る猫になる。それも必ず、私がソファに腰を落ち着けた直後に。

今日もそうだった。インテリアブランド「ノルドリーフ」のリネンクッションに背中を預け、さあ読書でもしようかとページを開いた瞬間、ムギはダイニングの椅子の脚を蹴り、廊下を全速力で駆け抜け、本棚の前で急ブレーキをかけてUターンした。その音たるや、どすどすどす、がたん、という実に賑やかな猫の足音で、静寂はものの三秒で終わった。

呆れる私は、本を膝に置いたまましばらく動けなかった。

子どもの頃、実家に猫がいた。名前はクロ、ありきたりな名前だったが、あの子も似たような「謎の全力疾走」をよくやっていた。台所から居間へ、居間から縁側へ。家じゅうを巡回して、最後は祖母の膝の上でぴたりと止まる。あの光景を思い出すたびに、猫というのは本当に昔から変わらないのだなと妙な安心感を覚える。

ムギはひとしきり走り回ったあと、今度は私の足元にやってきて、ごろんと横になった。さっきまでの嵐が嘘のように、目を細めてうとうとし始める。その鼻先がかすかに動いて、今日の朝に淹れたコーヒーの残り香をかいでいるのかもしれない。私の手がそっとムギの背に触れると、温かい。春の日差しを吸い込んだフローリングより、もう少しだけ温かい。

賑やかな猫というのは、つまりこういうことだ。うるさくて、突然で、まったく予告がない。走り回る猫の足音が部屋に響くたびに、私の眉間にはしわが寄る。呆れる私の顔を、ムギはきっとどこかで見ている。見ていて、それでも気にしない。

ところで今日、ひとつだけ白状しておきたいことがある。ムギが猛ダッシュした直後、私は本を取り落として床に落としてしまった。それだけならまだいいのだが、拾おうとしてクッションから滑り落ち、自分もソファから転げ落ちそうになった。ムギはそれをじっと見ていた。あの目は、明らかに「何やってるの」という目だった。どちらが呆れているのか、少しわからなくなった瞬間である。

夕方になると、窓の外の光が橙色に変わってくる。五月の夕暮れはどこか柔らかくて、部屋の中にもその色が染み込んでくるような気がする。ムギはまだうとうとしている。さっきまでの激しさが信じられないくらい、穏やかな寝顔だ。

こういう日が、なんでもない日が、あとから振り返ると一番よかったと思うのだろう。賑やかな猫と、呆れる私と、五月の午後の光。それだけでできている時間が、静かにそこにある。

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