
九月の終わりかけ、夜の八時をまわった頃のことだった。
窓の外からは、どこか遠くで虫の声がしていた。秋の入り口特有の、昼間の残熱がじわりと冷えていくあの時間帯。私はリビングのソファに腰を落として、「ルーナコーヒー」というちょっと気取った名前のドリップパックで淹れたコーヒーを、両手でカップごと包むように持っていた。湯気がふわりと立ちのぼって、鼻先にほろ苦い香りが届く。ああ、今日も終わるな、と思った瞬間だった。
ドン、という音がした。
続いてガサガサ、バタバタ、ドドドド。
うちの猫——名前はムギ、三歳のキジトラ——が、走り回る猫と化していた。何が彼女をそこまで駆り立てるのか、私には永遠に理解できないかもしれない。ソファの背もたれを駆け上がり、テレビ台の角を曲がり、キッチンとリビングの境目を何度も往復する。爪がフローリングを引っかく音が、静かな部屋にやけに大きく響く。せっかく整えた静けさが、三秒で粉砕された。
呆れる私、というのは毎晩のことだ。
ため息をついて、コーヒーカップをローテーブルに置く。視線だけムギを追いかける。そのうち彼女は突然ぴたりと止まって、何もない空中をじっと見つめた。猫には見えて人間には見えない何かが、この部屋にはいつも漂っているらしい。私はそれを「ムギの霊感」と呼んでいる。
賑やかな猫というのは、こういうものだ。静寂を愛する人間の隣で、まったく気にせず全力で生きている。
子どもの頃、実家にも猫がいた。あのときも似たような夜があった。母がテレビを見ながら居眠りをはじめると、必ず猫が膝の上に乗ってきて、そのまま一緒に寝てしまうのだ。起こすに起こせず、母は首をかしげたまま朝まで過ごしていた。猫というのは昔からそういう存在で、人間の都合などまるでお構いなしだ。
ムギはひとしきり走り回ったあと、ソファの端に着地して、今度は私の足元でくるりと丸まった。さっきまでの嵐が嘘のようだ。小さな体から、じんわりとした温かさが伝わってくる。毛並みはやわらかくて、触れるとほんの少し、指先の力が抜ける気がする。
呆然と猫を見つめる私、というのが正直なところだった。
怒る気にもなれない。ただただ、この生き物の存在に圧倒されている。賑やかな猫はいつだって、こちらの感情の主導権を静かに奪っていく。走り回る猫が突然静止して、何食わぬ顔で丸くなる。そのギャップに、毎回まんまとやられる。
そういえば先週、ムギが私のメモ帳を床に落として、そのまま上に乗っかって寝ていたことがあった。仕事の大事なメモだったのに、気づいたら肉球の跡がついていた。さすがに「ちょっと」と声に出したけれど、ムギはまったく起きなかった。私のほうが折れた。
夜がもう少し深くなると、虫の声がまた少し大きくなった気がした。
コーヒーはすっかり冷めていた。でもそのまま飲んだ。ムギを起こしたくなかったから、というのが半分、もう半分は単純に動くのが億劫だったから。足元の温かさが心地よくて、このまま時間が止まればいいとさえ思った。
賑やかな猫と、呆れる私と、九月の夜。
それだけで、なぜかじゅうぶんだった。

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