
秋の午後三時というのは、妙に間延びした時間が流れる。窓から差し込む光はまだ十分に明るいのに、どこかもう夕方の匂いがして、コーヒーを一口飲むたびに「もうこんな時間か」と思う。私はソファに腰を沈め、架空のインテリアブランド「ノルテ・ハウス」のカタログを眺めていた。北欧風の白い棚と、グレーのラグ。静かで整った部屋の写真が並んでいる。
そのとき、廊下の奥からドドドドド、という音がした。
賑やかな猫、というのは、うちのシロのことだ。生後二年、体重四キロちょっとの白黒ハチワレで、何かに火がつくと家中を走り回る猫である。今日もまた、何かに火がついたらしい。カタログを持ったまま、私はただ呆然とシロを目で追った。リビングを横切り、キッチンの角を曲がり、また戻ってきて、テレビ台の下に突進して、なぜか急停止する。そしてぺたりと床に伏せて、何事もなかったかのような顔をした。
呆れる私、というのはこういうときの私のことだ。声も出ない。ため息すら遅れてやってくる。
シロが走り回る猫になったのは、たぶん生まれつきだと思う。子どもの頃、実家で飼っていたトラという猫も同じだった。深夜に突然走り出して、階段をものすごい速さで上り下りし、翌朝ケロッとしている。あの頃の私は「猫ってこういうものだ」と思っていたけれど、大人になって改めて向き合うと、やっぱりよくわからない。何がスイッチなのか。何が楽しいのか。
シロはまた立ち上がった。
今度は私のひざの上に飛び乗ってきて、カタログをぐしゃりと踏んだ。ノルテ・ハウスの白い棚の写真が、肉球で折れた。
冷たい鼻先が手の甲に触れる。秋の空気を吸い込んできたのか、その鼻はひんやりとしていて、少しだけ湿っていた。コーヒーの香りが漂う部屋の中で、シロの体温だけがじんわりと温かい。毛並みに指を差し込むと、細かい振動が伝わってくる。ゴロゴロ、という音ではなく、もっと小さな、エンジンのかかり始めのような音。
私はカタログを床に置いた。
正直に言えば、呆れているのか、愛おしいのか、もうよくわからなくなっている。走り回る猫を眺めながら「なんでそんなに元気なんだ」と思う気持ちと、「ずっとそうでいてくれ」と思う気持ちが、同じ重さで胸の中にある。どちらが勝っているかは、その日の自分の疲れ具合によって変わる。今日は、たぶん後者が少しだけ重い。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。金木犀はもう終わりかけで、かすかに甘い残り香だけが漂ってくる。光の角度が変わって、フローリングに細長い影が伸びた。シロはそれに気づいて、影を前足でちょんちょんと叩いた。
ああ、また始まる、と思ったら、今度は叩くだけで走らなかった。
拍子抜けして、私はまた静止した。シロも静止している。影だけが、ゆっくりと動いている。
賑やかな猫と、呆れる私と、午後三時の窓の光。それだけで、一日が成り立っている気がする日がある。整ったカタログの部屋とは程遠い、折れたページと肉球の跡が残るソファの上で、私はもう一度コーヒーに手を伸ばした。ぬるくなっていた。それでも、悪くなかった。


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