
十月の終わり、窓の外では銀杏の葉が風に押されてひらひらと舞い落ちている。夕方五時を少し過ぎたころ、部屋の中にはもうすっかり夜の気配が忍び込んでいた。わたしはソファに深く沈み込んで、ずっと積んだままにしていた小説をようやく開いた。ページをめくるたびに、かすかにインクと紙の乾いた香りが鼻をくすぐる。読書する私にとって、これ以上ない静かな時間のはずだった。
ところが、そうはいかない。
「ニャ」
一声だけ、短く鳴いた。振り返ると、ソファの背もたれの上に三毛猫のコトハが座っていた。コトハはわたしが家に来た子で、もう六年になる。彼女はじっとこちらを見ている。その目が「あなた、今わたしより本を大事にしてますよね?」と言っているような気がして、思わず苦笑いしてしまった。
邪魔をする猫というのは、どうしてこうも絶妙なタイミングを心得ているのだろう。物語がいよいよ佳境に差し掛かったその瞬間を、まるで見計らったかのように選んでくる。コトハはそっとソファの背から降り、わたしの膝の上ではなく、開いた本の上に、どすんと前足を乗せた。ページが少し折れた。
愛猫の”邪魔かわいい行動”は、癒し度満点。
とはよく言ったものだと思う。実際、怒れないのだ。コトハの前足はほんのり温かくて、その重さがページごしに手のひらに伝わってくる。柔らかい毛の感触。ゴロゴロという低い振動が、骨まで届くような気がした。
猫がわざわざ視界の前に立ちはだかってくるとき、もっとも多い理由のひとつが「かまってほしい」という気持ちだ。
コトハからすれば、わたしがただぼんやりと紙を眺めているようにしか見えないのかもしれない。そりゃあ、かまってくれと思うだろう。その理屈は、頭ではわかっている。
わたしには子どもの頃の記憶がある。実家で飼っていた猫が、母の裁縫箱の上に乗って動かなかった夜のこと。母は困りながらも笑っていた。あのとき初めて、猫に邪魔されることが、どこか特別な時間に変わる瞬間があると知ったのだと思う。
コトハはやがて、本の上からわたしの腕の内側へと移動した。腕を枕にして、うとうとし始める。その重さと温もりが、じわじわと広がってくる。わたしはページをめくることができなくなった。正確には、めくろうとしたら、コトハが片目だけ開けてこちらを見た。なんとなく、動けなくなった。
愛おしい猫というのは、こういう生き物だ。言葉もなく、理屈もなく、ただそこにいることで人間の時間を塗り替えてしまう。
仕方なく、わたしは本を閉じた。そして、インテリアブランド「ノルディカルーム」で買ったウールのブランケットをコトハごとそっとかぶせて、目を閉じた。窓の外では風が少し強くなって、銀杏の葉が何枚かまとめて落ちる音がした。
飼い主さんがパソコンやスマホを操作したり、本を読んだりしているとき、愛猫が手元に割り込んでくることはありませんか?
と、ある記事で問いかけられていた。ある、ある、毎日ある。でも今なら、それが邪魔だとは思わない。邪魔をする猫がいるということは、誰かがそこにいるということだから。
本を読む=猫と過ごす時間、というルールがすっかりできあがっている。
我が家もそうなってしまった。読書する私は、もうとっくにコトハの読書時間に巻き込まれている。
コトハの寝息が、少しずつ深くなっていく。その音を聞きながら、わたしはぼんやりと考えた。物語の続きが気になるのは確かだ。でも今夜は、このまま一緒に眠ってしまってもいいかもしれない。ページの折れた箇所が、明日のしおりになる。それで十分だと、そう思えた。
外の気温はもう十度を下回っているだろう。でも部屋の中は、猫一匹分だけ、確かに温かかった。

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