猫と私が作る、まったりとした食事の時間

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梅雨の晴れ間というのは、妙に静かだ。六月の午後二時すぎ、窓から差し込む光がフローリングの上に細長い四角形を描いていて、その中に、うちの猫のムギがちょうど収まっている。まるで最初からそこに座るつもりで計算していたかのように、きっちりと。

猫と暮らすようになって、もうすぐ四年になる。

最初の一年は正直、戸惑いの連続だった。夜中に突然走り回る音、カーテンにするりと登る細い爪、そして朝五時に顔の上に乗ってくる重さ。でも今は、そのどれもが「ムギがいる証拠」として、どこか愛おしい。慣れというよりは、馴染んだ、という感覚に近い。

猫と私の一日は、だいたい食事からはじまる。

朝、キッチンに立つと、ムギはいつの間にか足元にいる。音もなく近づいてくる、あの気配のなさがすごい。冷蔵庫を開ける音に反応しているのか、それとも私が起きた瞬間からずっとそこにいるのか、正直よくわからない。小さなアルミのボウルにウェットフードをのせてやると、最初の数秒だけじっとにおいを嗅いで、それからゆっくり食べはじめる。その横で私はコーヒーを淹れる。豆は近所の「ツバキ珈琲焙煎所」のエチオピア浅煎り。すこし酸味があって、朝の光の中で飲むと不思議とやわらかく感じる。

食事が終わると、ムギは窓際へ移動する。さっきの光の四角形のなかへ、また戻っていく。

私が子どもの頃、実家には猫がいなかった。犬を飼っていた時期があったけれど、猫はずっと「よその家の動物」だった。近所のおばあちゃんの家に三毛猫がいて、縁側でひなたぼっこしているのを、塀の外からよく眺めていた記憶がある。触りたいのに触れなくて、でもその距離感がなんだか心地よかった。猫と私の関係は、あの頃からずっと、少しだけ遠くて、だからこそ気になる、そういうものだったのかもしれない。

昼の食事は、最近なるべくちゃんと作るようにしている。

パスタでも、スープでも、なんでもいい。ただ、ムギが近くにいる状態で食べる、ということが大事な気がしている。ソファの背もたれに顎を乗せて、こちらをじっと見ているムギの視線を感じながら食べる昼ごはんは、なぜか味がよくわかる。静かだから、かもしれない。テレビもつけないし、スマホもなるべく遠ざける。ただ、食べる音と、外の風の音と、ムギが時々立てる小さな鼻息だけがある。

先週、トマトと豆のスープを作ったとき、ムギがテーブルの端まで歩いてきて、スープのにおいをひとしきり嗅いだあと、「ちがう」とでも言うように静かに踵を返した。あの背中の小ささと、その潔さに、思わず笑ってしまった。猫と暮らすと、こういう小さな劇場が毎日どこかで上演される。

夕方になると、光の角度が変わる。

さっきまで床にあった四角形が、壁を登りはじめる。ムギはその変化を追うように、ゆっくり体の向きを変える。毛並みに夕陽が当たると、ふだんはグレーに見える毛が、すこしだけ金色になる。その瞬間だけ、ムギがずいぶん遠いところにいるような気がして、手を伸ばすのをためらう。

猫と暮らすということは、こういうことだと思う。

ずっとそばにいるのに、すこし遠い。触れているのに、どこか自由。それが心地よくて、だから私はムギのそばにいたいと思うし、ムギも(たぶん)私のそばにいる。夕食の支度をはじめると、またあの気配が足元に戻ってくる。今日もそうだった。冷蔵庫を開ける音に、ちゃんと反応して。

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