
梅雨の雨が窓ガラスを叩きはじめた、六月の夜のことだ。時刻は夜の九時をまわったばかりで、部屋にはインテリアショップ「ノワールムーン」で買ったアンバー色のフロアランプがひとつだけ灯っていた。その橙がかった光が、フローリングの床をゆるやかに染めていて、私はソファに深く沈みながら、ぬるくなったカモミールティーのカップを両手で包んでいた。雨の音と、遠くの換気扇のかすかな振動音。静かな夜のはずだった。
そう、「はずだった」のだ。
突然、賑やかな猫が廊下の奥から飛び出してきた。うちの三歳になる茶トラのムサシである。彼は何かに取り憑かれたように走り回る猫で、とくに夜になるとその傾向が顕著になる。ドタドタという音とともに、リビングから廊下へ、廊下からキッチンへ、キッチンからまたリビングへと、ものすごい勢いで駆け抜けていく。床を蹴る音が、雨音をかき消すほどだった。
私はカップを持ったまま、ただ呆然と猫を見つめていた。
呆れる私、というのはこういう瞬間のことを言うのだと思う。止める気力も、叱る気力もない。ただ、目で追うだけ。ムサシはソファの背もたれを踏み台にして跳び上がり、本棚の上をかすめ、着地の瞬間にわずかによろけた——そのよろけを本人はまったく気にしていないらしく、すでに次の標的に向かって走り出していた。ちなみにその「標的」は、私が昨日買ったばかりのエコバッグである。合掌。
子どものころ、実家で飼っていた猫も同じだった。夜中に突然走り出して、母が「また始まった」と苦笑いしながら布団の中で寝返りを打つ。あの頃は猫の行動の意味なんて考えたこともなかったけれど、今になって思えば、あれはきっと猫なりの何かだったのだろう。エネルギーの放出なのか、夢の続きなのか、それとも人間には見えない何かを追いかけているのか。
走り回る猫の足音が、しだいに遠ざかっていった。
嵐のあとの静けさ、というほど大げさではないが、ムサシが満足して丸くなったあとのリビングには、不思議な静寂が戻ってくる。床には彼が蹴散らしたクッションが一枚、斜めになって落ちていた。カモミールティーはもう完全に冷めていた。私はそれでも一口飲んで、ソファの背もたれに頭を預けた。
アンバーの光の中で、ムサシはキッチンの入り口あたりに座り、自分の前足をぺろりと舐めていた。何事もなかったかのように、である。その仕草があまりにも落ち着いていて、私はまた少し呆れた。さっきまであれほど賑やかな猫だったのに、今や完全に「無」の表情で毛づくろいをしている。その切り替えの速さに、私はいつも少しだけ嫉妬する。
雨の音が、また少し強くなった。
窓の外、梅雨の夜の湿った空気が、ガラス越しにうっすらと伝わってくる気がした。ムサシはそのまま目を細め、ゆっくりとまぶたを落としていった。走り回る猫が、今は一枚の静止画のようにそこにいる。私はカップをローテーブルに置いて、しばらくその背中を眺めていた。何も言わずに。何も考えずに、ただ見ていた。
猫と暮らすというのは、こういうことの積み重ねなのかもしれない。賑やかで、呆れて、それでも目が離せない。言葉にしてしまうと陳腐だけれど、この感覚はどうしても言葉にしたくなる。雨の夜に、冷めたお茶を飲みながら、走り回る猫の背中をただ見つめている——そんな、誰にも説明できない時間が、なぜかとても愛おしい。
ムサシはもう眠っているようだった。小さな寝息が、雨音に混じって聞こえた。

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