
午後の光が窓から斜めに差し込む時間帯、私はソファに深く沈み込んで本を読んでいた。手元には「ヴェルダン・ブレンド」という名の紅茶——近所の小さな輸入雑貨店で見つけた、少しスモーキーな香りのする茶葉を使ったもの——が湯気を立てていて、部屋の空気はほんのり甘く、静かだった。
そのとき、足元に気配があった。
ふわりとした重みが足首のあたりに乗ってくる。見なくてもわかる。うちの猫、麦だ。三歳になる薄いキャラメル色のオス猫で、私が本を開くたびに必ずどこかから現れる。まるで「読書スイッチ」を感知するセンサーでも持っているかのように。
最初はそのまま足元で丸くなるだけだった。それでよかった。お互い静かに、同じ空間にいる。それだけで十分な時間だと思っていた。でも麦はそれでは満足しない。じっとしているのは、せいぜい十分が限界だ。
やがて、ゆっくりと体を起こす気配がした。視線を感じる。ページから目を上げると、麦がまっすぐこちらを見ていた。瞳が丸く開いていて、尻尾の先だけがゆらゆらと揺れている。「なんだ」と声に出すと、彼は返事の代わりに立ち上がり、ゆっくりと私のひざの上に前足を乗せてきた。
ひざの上に来るのはまだいい。問題はそこからだ。
麦は私の手——本を持っている手——に顔を押しつけてくる。ページが折れる。栞がずれる。文章の途中で強制的に読書が中断される。しかも彼は申し訳なさそうな顔を一切しない。むしろ満足そうに目を細めて、ごろごろという低い音を喉の奥で転がしている。
子どものころ、実家にも猫がいた。名前はコムギといって、麦という名前をつけたのは無意識のうちにその記憶が影響していたのかもしれない、と最近気づいた。コムギもよく本の上に乗ってきた。あの頃は邪魔だと思いながらも、猫の体温が教科書越しに伝わってくるのが不思議と嫌じゃなかった。ページを押さえている手の甲に、柔らかい毛の感触があった。
麦も同じだ。体温が高い。手のひらに伝わってくるその熱は、冬の午後には特に心地よくて、つい撫でてしまう。撫でれば撫でるほど、ごろごろが大きくなる。本はもう読めない。
一度、どうしても続きが気になる場面で麦を膝からそっとどかそうとしたことがある。両手で抱えて、隣のクッションに移そうとした瞬間、彼はするりと腕をすり抜けて、今度は開いた本の上に直接乗ってきた。ページの上に四本足でどっしりと座り、こちらを見上げる目には「どうぞ」とも「どけ」とも読めない、泰然とした表情があった。思わず笑ってしまって、本を閉じた。完敗だった。
邪魔をする猫、という言葉がある。でも麦を見ていると、それは少し違うと思う。彼は邪魔をしたいわけじゃない。ただ、そこにいたいのだ。私のそばに。私が何かに集中しているとき、その集中の輪郭に触れるように近づいてくる。かまってほしい、という感情が、猫にあるのかどうかはわからない。でも麦の行動はどう見ても、それとしか思えない。
窓の外で風が吹いて、カーテンがわずかに揺れた。光の角度が変わり、麦の毛並みに細かい金色が混じって見えた。彼はそのとき、ちょうどあくびをしていた。大きく口を開けて、目を細めて、それからまたこちらを見た。
読書する私にとって、この時間は邪魔をされているのかもしれない。でも同時に、これ以上ない豊かな午後でもある。本の続きはいつでも読める。でも麦がこうして膝に乗ってくる今この瞬間は、今日の午後にしかない。そう思うと、栞がずれたことも、ページが折れたことも、どうでもよくなってしまう。
愛おしい猫というのは、こういうことなのだと思う。完璧な静けさを壊してくれる存在。それでいて、その壊し方がどこか優しい。

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