猫と私の、とろけるような午後の食事時間

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八月の午後二時すぎ、部屋の中はひっそりと静まり返っていた。エアコンの低いうなり声だけが、白い壁にじんわりと溶け込んでいる。カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングの上に細長い四角形を描いていて、そこにちょうど、うちの猫のムギが丸まっていた。

ムギはスコティッシュフォールドの雑種で、耳が少しだけ折れていて、顔がやや不満げに見える。でも実際はいつもご機嫌だ。少なくとも、私にはそう見える。猫と暮らすようになってから、私はそういう「たぶんそうだろう」という読みで生きることが増えた。

この日の昼食は、冷蔵庫の残り物で作ったそうめんだった。架空のインテリアショップ「ソラノネ」で買った淡いグレーのランチョンマットの上に、白い器を置いて、薬味をちょんと乗せる。ただそれだけのことなのに、なんとなく丁寧な気持ちになれる。猫と私の食事は、いつもこんなふうに始まる。私がキッチンに立つと、ムギはどこからともなく現れて、足元でくるくると回り始めるのだ。

子どもの頃、実家にも猫がいた。茶トラの「ゴン」という名前で、ご飯の時間になると台所の前で鳴き続けた。母が「うるさいねえ」と言いながら笑っていた光景を、なぜかそうめんを食べるたびに思い出す。記憶というのは、においや音に引っ張られるものらしい。だしの香りが漂うたびに、あの夏の台所がよみがえってくる。

ムギの食事は、私より少し早い。ウェットフードを小皿に出すと、鼻をひくひくさせてから、ゆっくりと食べ始める。その横顔を眺めながら、私もそうめんをすする。静かだ。本当に静かで、時間がゆっくり流れているような気がする。猫と暮らすようになって一番変わったのは、こういう「何もしない時間」を罪悪感なく過ごせるようになったことかもしれない。

食べ終わったムギは、しばらく毛づくろいをして、それからまた光の四角形の中へ戻っていった。目を細めて、ぼんやりと窓の方を見ている。私もソファに腰を下ろして、麦茶をひとくち飲む。冷たい液体が喉を通る感触が、じんわりと気持ちいい。

そのとき、ムギがふいにあくびをした。大きな口を開けて、目をぎゅっとつぶって、それからぱたりと横になった。あまりにも堂々としたあくびで、思わず「ちょっと、今が一番いいシーンなんだけど」と心の中でつっこんでしまった。でもまあ、そういうズレが愛しい。猫はいつだって、こちらの都合など気にしない。

窓の外では、蝉がまだ鳴いていた。遠くで子どもたちの声がして、また静かになる。エアコンの風が、ムギの毛をわずかにゆらした。私はそれをただ見ていた。何かをしなければと思う気持ちが、少しずつほどけていくような感覚。猫と私の午後は、いつもこんなふうに、どこかへ流れていく。

猫と暮らすということは、こういうことなのだと思う。特別なことは何もない。ただ、同じ空気を吸って、同じ光の中にいる。それだけのことが、なぜかとても満ち足りた気持ちにさせてくれる。

ムギはもう眠っていた。小さな寝息が、かすかに聞こえるような気がした。私も目を閉じる。八月の午後は、まだまだ長い。

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