
夏の終わりかけの朝、というのはいつも中途半端な明るさをしている。カーテンの隙間から差し込む光が、まだ白いのか薄い金色なのかよくわからないあの時間帯。7月の下旬、午前5時42分。わたしはベッドの中でまどろんでいた。
そのとき、シーツの上に、小さな重さが乗ってきた。
「ルナ」と名付けた三毛猫が、足元からゆっくりと歩いてくる気配。肉球の感触が、薄いシーツ越しにぼんやりと伝わってくる。踏む、止まる、また踏む。まるでリズムを確かめるように。わたしはまだ目を開けない。開けたくなかった、というより、この感触のまま、もう少しだけここにいたかった。
猫に起こされる、という体験は、目覚まし時計に起こされるのとはまるで違う。あれは断絶だ。でも猫は、ゆっくりと現実へ引き戻してくれる。ベッドの中という夢と現実の境界線上に、しばらく一緒に座っていてくれるような感じがする。
ルナの鼻先が、わたしの頬に触れた。ひんやりしていた。夏なのに、猫の鼻というのはなぜあんなに冷たいのだろう。その冷たさが、ぼんやりした意識の縁を、少しだけはっきりさせた。うっすら目を開けると、至近距離に可愛い瞳があった。金色がかった緑の瞳。瞬きもせず、ただまっすぐにこちらを見ている。
猫が飼い主を朝に起こしにくる理由はさまざまで、「リビングに行きたいから一緒に来てほしい」「トイレしたから片付けてほしい」など、猫なりの切実な用件があることも多い
らしい。でもルナの場合、いつも理由がよくわからない。ごはんの時間でもない。トイレも問題ない。ただ、「起きてほしい」というだけのような気がする。
子どもの頃、実家にも猫がいた。茶トラのオスで、名前は「ぽんた」という、いかにも昭和な名前だった。あの猫も朝になると布団の上に乗ってきて、顔をぺたぺたと踏んでいた。当時は鬱陶しくて仕方なかったのに、今となっては、あの重さと温もりをなつかしく思い出す。記憶というのは都合よくできている。
ルナが低く、くぐもった声で鳴いた。「ミュ」とも「ウ」ともつかない、喉の奥から出てくるような小さな声。それからゆっくりと、わたしの胸の上に前足を置いた。体重をかけてくる。3.8キログラム。数字で言うと大したことないように思えるが、胸の上に乗られると、これが案外ずっしりとくる。
わたしはようやく手を伸ばして、その頭を撫でた。指の間に、細い毛の感触。耳の後ろを掻いてやると、目を細める。
猫は「この時間に起きれば飼い主が反応してくれる」と一度学習すると、その行動が習慣として定着する
という。つまりわたしは完全に、ルナの習慣に組み込まれてしまっている。飼い主のつもりが、いつの間にか管理される側になっていた。(心の中で小さくツッコんだが、もはや抵抗する気はない。)
部屋には、昨夜焚いたアロマの残り香がかすかに漂っていた。インテリアショップ「ヴェルデノール」で買ったヒノキとラベンダーを合わせたブレンドオイル。窓の外では、ヒグラシがまだ鳴いていない。その代わり、どこか遠くで鳥の声がした。名前のわからない鳥の、短い鳴き声。
ベッドの中という場所は、ふだん意識しないけれど、特別な場所だと思う。起きているわけでも、眠っているわけでもない。考えごとが、ふわりと浮かんでは消える。昨日の失敗も、明日の不安も、この時間だけは輪郭がぼやける。そこに猫がいる。可愛い瞳で、ただこちらを見ている。それだけで、なんとなく、今日もやっていけるような気がしてくる。
猫に起こされることを、不満に思う日もある。もう少し寝ていたい、という日は正直ある。でも、この朝の5時42分の記憶は、たぶん長い間残るだろうと思う。白い光と、ひんやりした鼻先と、胸の上の3.8キログラムと。ベッドの中でまどろんでいるわたしを、ルナはいつも、ちょうどいい速度で現実へ連れ戻してくれる。
それはもしかしたら、目覚まし時計には絶対にできないことかもしれない。

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