
夏の夜明け前、部屋の空気はまだほんのりと涼しかった。カーテンの隙間から、白みはじめた光がうっすらと差し込んでいる。その光が枕元に届くか届かないかというあいまいな時間帯に、わたしはいつも「それ」に気づく。
重さだ。
ベッドの中でまどろんでいると、足元のあたりにじわりとした重みが生まれる。最初は夢の続きかと思う。でも違う。それは確かに、温かくて、やわらかくて、小さく上下している。
うちの猫、ムギが来たのだ。
ムギはキジトラの雄で、もう五歳になる。子どもの頃、わたしは生き物を飼うことに憧れがあった。団地暮らしだったから犬は無理で、金魚を三匹飼っては全滅させ、また三匹買っては全滅させるという悲しいループを繰り返していた。あの頃の自分に教えてやりたい。いつかちゃんと、温かい毛並みの生き物と暮らせるよ、と。
ムギの起こし方は、実に段階的だ。まず足元に乗る。それで起きなければ、今度は腹の上に移動してくる。それでも起きなければ、顔の横に陣取って、可愛い瞳でじっとこちらを見つめてくる。あの目が近距離で向けられると、もう抵抗できない。丸くて、琥珀色で、薄明かりの中でほんのりと光るその瞳は、どんな目覚まし時計よりも確実に意識を引き戻してくる。
そして先日、ついにムギは新しい手を覚えた。
耳元で「ふんっ」と鼻息を吹きかけてくるのだ。
思わず笑ってしまった。朝五時に、猫の鼻息で起こされるとは思っていなかった。怒る気にもなれないし、むしろ心の中で「そこまでするか」と小さくツッコんでいた。
猫は「この時間に起きれば飼い主が反応してくれる」と一度学習すると、その行動が習慣として定着する。
つまりわたしが笑って起き上がったあの朝から、ムギの鼻息作戦は正式に採用されたのだと思う。完全に自業自得である。
ベッドの中でまどろんでいる時間というのは、不思議なものだ。眠りと覚醒のあいだに、意識がゆっくりと浮かび上がってくる。その瞬間に猫に起こされると、夢の余韻と現実がまじりあって、なんとも言えない柔らかい感覚が残る。ムギの毛に指を差し込むと、体温がじんわりと手のひらに伝わってくる。綿みたいに軽いのに、重みはちゃんとある。矛盾しているようで、それが猫というものだと思う。
わたしが好きなインテリアブランド「ノルテリア」のリネンシーツは、夏でもひんやりしていて、ムギはそこに顎をのせるのが好きだ。シーツ越しに伝わるムギの体温と、窓から入ってくる夏の朝の空気と、どこかから聞こえてくる遠い鳥の声。それだけで、もう十分な朝だと思う。
猫に起こされる生活は、目覚まし時計のない生活でもある。アラームが鳴る前に、ムギがわたしの代わりに時間を管理している。
猫はもともと明け方と夕方に活動が活発になる薄明薄暮性の動物で、それは狩りをしていた頃の名残だとも言われている。
ムギが毎朝決まった時間にやってくるのは、何千年もの歴史が彼の体内に刻まれているからなのかもしれない。そう思うと、鼻息で起こされることすら、少し壮大な話に感じてくる。
起き上がると、ムギはさっさとキッチンへ向かう。用件はごはんだ。あれだけ甘えた顔をしていたくせに、ごはんを出した瞬間にはもう夢中で、こちらのことなど見ていない。それでいい。それが猫だ。
ベッドの中のまどろみを壊してくれるのが、こんなにも可愛い瞳の生き物だというのは、われながら幸運な話だと思っている。今朝も、夏の光が部屋に差し込む前に、ムギがやってきた。

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