
七月の夕暮れ時、窓から差し込む光がオレンジから深い藍色へと変わりはじめるころ、私はいつものようにソファに沈み込んで本を開いていた。読みかけのページを探しながら、冷めかけたハーブティー──「ルナフォグ」というブランドの、カモミールとラベンダーをブレンドしたもの──をひとくち含む。ほんのり甘く、少しだけ草の香りがする。夏の夕方にはちょうどいい温度だった。
そのとき、気配がした。
ふわり、と。ソファのひじ掛けに前足をかける音。続いて、わずかな重みが膝の上にのってくる感触。うちの猫、ムギだ。三歳になるキジトラで、普段は気ままに昼寝ばかりしているくせに、私が読書する私に向かって集中しはじめると、必ずこうして現れる。
猫からすると、読書の意味が分からず、飼い主さんがただボーっとしているように思えるのだろう。
確かにムギの目には、私がじっと紙を眺めている姿が、暇を持て余しているように映っているのかもしれない。
ムギはしばらく膝の上で丸まっていた。私も邪魔をする猫の存在に慣れているから、片手で本を支えながら、もう片方の手でそっと背中を撫でる。ゴロゴロという低い振動が、手のひらを通じて伝わってくる。その感触は、不思議なくらい心地よかった。
しかしそれも長くは続かない。
ムギはやがて体を起こし、今度は開いた本の上に、どすんと前足を置いた。ちょうど私が読んでいたページの、いちばん大事な一文の上に。
ページをめくろうとすると、手を入れてめくり返してくる。
まるで「まだ読み終わってないにゃ」と言わんばかりに。
思わず笑ってしまった。ムギ、そこじゃない。そこは私が読む場所だ。
飼い主が何かに集中してじっとしていると、猫は飼い主が暇だと勘違いして、「そんなに暇なら遊んでよ」と本の上に寝転がってアピールする。
頭ではそれをわかっているのに、いざ自分の大切な読書タイムを邪魔をする猫を前にすると、怒れないのだ。愛おしい猫というのは、困らせるほどに可愛い。
子どもの頃、実家でも猫を飼っていた。あのころも夏休みになると縁側で本を読んでいて、茶トラのコムギがいつも足元に来ていた。あのぬくもりと、今のムギのぬくもりが、どこかで重なる。記憶というのは、触感で呼び起こされることがある。
読書する私は、しかし今日もページが進まない。
ムギは本の上に顎を乗せ、細めた目でこちらをじっと見上げている。
猫が膝の上に向かい合わせになってのってくるときは、コミュニケーションを求めていることが多い。
そういえば今日は朝からずっと仕事で出かけていて、ムギをひとりにしていた時間が長かった。それを思うと、邪魔されるのも悪くない気がしてくる。
窓の外では、夕立の前触れのような湿った風が吹き込んでいた。カーテンがゆっくり揺れて、部屋に草と土の匂いが混じる。ムギの耳がぴくりと動く。
私は本を閉じた。
しおりを挟む代わりに、ムギの頭を両手でそっと包む。温かくて、少しだけ汗ばんでいる。ゴロゴロという音がまた始まった。今日の読書はここまでだ。でも、それでいいと思っている。愛おしい猫と過ごすこの時間は、どんな物語よりも少しだけ、生きている感じがするから。

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