
七月の朝は、思ったより早く明るくなる。まだ六時にもなっていないのに、レースカーテン越しの光がすでに白く、部屋の空気が微かに熱を帯び始めている。そんな時間に、うちの猫——名前はムギ、三歳の茶トラ——はいつも決まって、わたしの足元で丸くなっている。目を細めて、小さく喉を鳴らしながら。
猫と暮らすようになってから、朝の過ごし方が変わった。以前は目覚ましが鳴るまでぎりぎりまで寝ていたのに、今は少し早めに目が覚める。ムギの体温が足に伝わってくる、あのじんわりとした温かさで。
ある朝、ムギがいつものように足元に来なかった。ご飯の時間になっても、フードボウルの前でぼんやりと立ったまま動かない。食事に気をつけるようになったのは、そのときからだ。猫は食欲の変化が体調のバロメーターになる、とは聞いていた。でも実際に目の前でそれを見て初めて、「ちゃんと見ていなかったな」と気づいた。幸いその日は少し暑さでバテていただけで、夕方には元気を取り戻してくれたのだけれど。
それからわたしは、毎朝ムギにごはんをあげるとき、食べ方をよく観察するようにした。勢いよく食べているか、水をちゃんと飲んでいるか。総合栄養食のウェットフードと、ドライを少し混ぜたもの。フードボウルの高さも、首に負担がかからないよう少し台を置いて調整した。インテリアブランド「ニチカ・ホーム」のスタッキングトレーがちょうどよい高さで、見た目もすっきりしていてお気に入りだ。食事に気をつけるというのは、栄養の話だけじゃなく、食べる環境ごと整えることだと、ムギに教えてもらった気がする。
動きに気をつけるようになったのも、ちょうど同じ頃だ。猫は痛みや不調を隠す動物だと聞く。ジャンプをためらう、着地のときに少しよろける、そういった小さなサインを見逃さないようにしたい。ムギは普段、キャットタワーの一番上まで軽々と登るのだが、ある日の夕暮れ、二段目で止まってじっとしていた。降りるのをためらっているような、あの背中の丸め方。そのとき思わず「どうした?」と声をかけていた。動きに気をつけるというのは、結局、毎日その子を見ているからこそできることだ。
体調に気をつけるというのは、何か特別なことではないのかもしれない。毎朝ムギの目やにをそっと拭いてやる。ブラッシングをしながら、皮膚に変なものがないか確認する。爪の先が鋭くなっていないか触れてみる。そのひとつひとつが、体調に気をつけるという行為の積み重ねだ。
ところで、ブラッシングのとき、ムギはいつも途中でぷいっと逃げる。五回に一回くらいの確率で、ブラシを持ったわたしの手をぺちっと叩いてから去っていく。怒っているわけでもなく、ただ「もう十分」という合図らしい。こちらとしては「まだ背中の半分しか終わってないんだけど」と心の中でツッコんでいるのだが、それも含めてムギのペースに合わせるのが、長く一緒に暮らすコツだと最近わかってきた。
子どもの頃、実家でも猫を飼っていた。名前はクロ。外猫で、気まぐれに帰ってきてはごはんを食べて、また出ていく。あのころは体調管理なんて考えもしなかった。ただそこにいて、たまに撫でさせてくれるだけで嬉しかった。でも今は違う。ムギはわたしの部屋で、わたしの時間の中で生きている。だから、体調に気をつけることは、ムギのためであり、わたし自身の生活リズムを整えることでもある。
猫がいると、不思議と自分の健康にも意識が向くようになる。ムギが水をよく飲む夏は、わたしも水を飲もうと思う。ムギが窓辺でうとうとしている午後の静けさの中で、ふと「自分もちゃんと休めているか」と考える。外の蝉の声が遠くに聞こえる、あの時間が、今は一番好きかもしれない。
猫と暮らすということは、誰かの体調をそっと気にかける毎日を、自然と選ぶということだ。それは決して重荷ではなく、むしろ日々の暮らしに小さな確かさを与えてくれる。ムギが今日も元気に、ごはんをぺろりと平らげてくれることが、わたしにとっての一番の安心だ。

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