
五月の夕方というのは、不思議なほど長い。窓から差し込む光がオレンジ色に傾いて、部屋の隅まで柔らかく満ちている。そういう時間帯に、私はいつもソファの端に座って、膝の上に温かいものを感じながら、今日が終わっていくのをぼんやりと眺めている。膝の上にいるのは、もちろん猫だ。
猫と暮らすようになって、三年が経つ。最初はこんなにも生活が変わるとは思っていなかった。朝の目覚めが変わり、帰宅のルーティンが変わり、夕食の準備をするたびに足元に温かい気配が生まれた。猫と私の暮らしは、そういう小さな変化の積み重ねでできている。
夕食の時間になると、彼女――名前はムギという、キジトラの五歳になる猫だ――は必ずキッチンの入り口に座って待っている。こちらの包丁の音や、フライパンが温まる匂いを、どこにいても察知してやってくる。鼻が利くというより、もはや生活のリズムを共有しているのだと思う。私が食事の準備をしている間、ムギはじっと見守るように座っていて、時々あくびをする。そのあくびがあまりにも堂々としていて、「あなたが作るのを待ってあげてますよ」という態度に見えて、思わず苦笑してしまう。
食事といえば、最近「ネコノマ」というインテリアブランドが出しているローテーブルを買った。猫が一緒にいる暮らしを前提に設計されたもので、脚が安定していてひっかき傷がつきにくい素材でできている。このテーブルで夕食を食べていると、ムギが必ず横にやってきて、鼻先をこちらのご飯に近づけてくる。魚の日は特に念入りに確認される。私が「だめだよ」と言うと、少しだけ目を細めて、それから視線を窓の外に移す。負けを認めたというより、興味を失ったふりをしているだけだと、三年もいれば分かる。
子どものころ、実家で猫を飼っていたことがある。あの頃は猫が食事中にそばにいることを特別だとは思っていなかった。ただ当たり前に、猫がいて、ごはんがあって、夕方があった。大人になって一人暮らしを始めてから、その「当たり前」がいかに豊かだったかを知った。だから猫と私の食事時間は、ただ栄養を摂るためのものではなく、一日の中でいちばん「生活している」と感じる瞬間になっている。
食後、私がほうじ茶を淹れると、湯気の香りにムギが顔を向ける。ふわりと漂う焦げたような甘さに、少し鼻をひくひくさせてから、また丸くなる。その一連の動作が、一日の終わりにちょうどいい。テレビをつけることもなく、スマホを見ることもなく、ただ湯気が消えていくのを眺めながら、猫の体温を感じている。
猫と暮らすということは、時間の使い方を変えることだと思う。何かをしながら何かをする、という効率的な時間の使い方が、猫がいるとどこかで崩れていく。撫でていると手が止まる。目が合うと声をかけてしまう。それが積み重なって、気づけばまったりとした時間が、一日のなかに自然と生まれている。
五月の終わりが近づくと、夕暮れの色がもう少し深くなる。ムギはそのころになると窓際に移動して、外の光をひとりで受けている。背中が金色に染まって、耳の先だけが透けて見える。私はそれをソファから眺めながら、今日も悪くなかったな、と思う。猫と私の食事があって、温かい飲み物があって、こういう夕方がある。それだけで、十分だ。

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