猫と私の、だらりとした夏の昼さがり――食事も、沈黙も、全部ちょうどいい

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七月の初め、午後二時をすこし過ぎたころの話だ。

梅雨が明けきらないまま夏が滑り込んできたような、あの蒸し暑くて少しだけ眠い時間帯。窓の外では蝉がまだ声を慣らしている途中みたいに、ぎこちなく鳴いていた。カーテンごしに差し込む光が畳の上に細長い四角形を作っていて、その真ん中に、うちの猫のムギがいた。

ムギは三歳のキジトラで、体重が五キロに届きそうな、ちょっとだけふくよかな男の子だ。保護猫の譲渡会で出会ったのがちょうど二年前の夏で、あのときは手のひらに収まるくらい小さかった。今はもう、抱き上げると腕がじんわり重くなる。

猫と暮らすようになって変わったことがある。時間の感じ方だ。

以前は休日の午後をなんとなく持て余して、やらなくていいことを次々と始めては中途半端に終わらせていた。部屋の片づけ、録り溜めたドラマ、読みかけの本。でも今は違う。ムギが昼寝をしている間、私もただそこにいる。それだけで、一時間があっという間に過ぎていく。

この日の昼の食事は、冷やした豆腐に生姜をのせたものと、麦茶と、昨日の残りのおにぎりだった。特別なものは何もない。でも、ムギが食器棚の上からじっとこちらを見下ろしながら食べるのを眺めていると、なぜかひどく豊かな気持ちになる。猫と私の食事の時間は、いつもそういう感じだ。言葉はないけれど、なんとなく一緒に食べている気がする。

食べ終えて、ソファに横になった。天井のシミを数えるでもなく、ただぼんやりしていると、ムギがそろそろと近づいてきて、膝の上に乗った。最初は前足だけ、次に後ろ足、それからぐるぐると場所を確かめるように三回転してから、ようやく丸くなった。その一連の動作がどこか儀式めいていて、私はいつも笑いをこらえる。

ムギの体温が膝ごしに伝わってくる。夏だから少し暑い。でも、どかせる気にはなれない。

子どもの頃、実家に猫はいなかった。母がアレルギーだったせいで、ずっと「猫がいる家」に憧れていた。友だちの家に遊びに行くたびに、そっとソファの下を覗いて猫を探していたことを思い出す。あのころの自分が今の部屋を見たら、どんな顔をするだろうか。たぶん、信じないと思う。

ムギが小さく鼻を鳴らした。夢を見ているのかもしれない。前足がぴくぴくと動いている。何を追いかけているのだろう、と思いながら、私はインテリアの雑誌を一ページだけめくって、また閉じた。

部屋の片隅には、先月「ノルテ・ルーム」というインテリアブランドで買ったラタン製のバスケットがある。猫用に買ったのに、ムギは一度も入らない。今日も知らん顔で畳の上に寝ている。三千円のバスケットが完全に置き物と化しているのだが、それについて私は何も言えない立場だ(ムギに言っても通じないし、そもそも選んだのは私だ)。

窓の外で風が動いた。カーテンが少しだけふくらんで、青草のような、雨上がりの土のような匂いが入ってきた。ムギの耳がぴくりと反応して、でもすぐにまた閉じた。

猫と暮らすということは、こういうことの積み重ねだと思う。大きな出来事は何もない。ただ、光と体温と、かすかな音がある。それが、猫と私の日常だ。まったりとした時間が、ゆっくりと、確かに流れていく。

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