
五月の夕方、窓から差し込む光がフローリングに細長い橙色の帯を作っていた。その帯の上を、うちの猫・麦(むぎ)が猛スピードで横切っていった。一瞬だった。まばたきひとつぶんの出来事。
麦は三歳になるキジトラで、体つきはほっそりしているのに、走るときだけ妙に存在感が増す。走り回る猫というのは、飼い主の想像をはるかに超えた動線で部屋じゅうを駆け抜けるものだ。ソファの背もたれ、テレビ台の角、キッチンのステップ台。三角形でも四角形でもない、謎の軌道を描きながら、麦はひたすら走り続けていた。
理由は、わからない。
私はダイニングテーブルに肘をついたまま、ただ呆然と猫を見つめていた。手元には「ノルディカコーヒー」のマグカップ。架空の北欧風インテリアブランドが出しているシリーズで、去年の誕生日に自分へのご褒美として買ったやつだ。中のコーヒーはとっくに冷めていた。湯気も消えて、ただ黒い液体だけが残っている。飲もうとするたびに麦が何かを倒す音がして、そのたびに立ち上がる、という繰り返しだった。
賑やかな猫、とはよく言ったものだと思う。
子どもの頃、近所に野良猫がたくさんいた。あの子たちはいつも物陰でじっとしていて、こちらが近づくとするりと逃げた。猫とはそういうものだと思っていた。静かで、気まぐれで、どこか遠い生きもの。だから麦を迎えたとき、あまりの騒がしさに面食らった記憶がある。
麦が走り始めたのは、たぶん何かのスイッチが入ったのだろう。猫にはそういう瞬間がある。突然、何かに憑かれたように動き出す。猫界隈では「夜の運動会」などと呼ばれているが、麦の場合は昼でも夜でも関係ない。気分次第で運動会は開催される。
フローリングを蹴る音、ぱたぱたという肉球の感触が床に伝わってくる振動、そして何かが倒れる低い音。それがリズムを刻むように連続した。私はもう立ち上がるのをやめて、ただ椅子に座ったまま麦の軌跡を目で追っていた。呆れる私、という言葉がぴったりだった。でも、怒る気にはなれなかった。
走り終えた麦は、突然何事もなかったかのようにソファの上に飛び乗り、丸くなった。あの全力疾走はなんだったのか。私が問いかけても、麦は目を細めてあくびをするだけだった。ちなみにそのとき、私のマグカップの取っ手に麦のしっぽが一瞬引っかかり、カップがくるりと百八十度回転した。中身はこぼれなかったが、取っ手が反対を向いたまま静止した。私と麦は一瞬、同時にそれを見た。麦はすぐに目を閉じた。(あなたがやったんですけど、という心の声は、誰にも届かなかった。)
窓の外では、五月の光がゆっくりと傾いていた。遠くで鳥が一声鳴いて、それきり静かになった。部屋の中にはコーヒーの冷めた香りと、麦の体温が混ざり合ったような、柔らかくて少しだけ獣くさい空気が漂っていた。
こういう時間が、案外好きだ。
大したことは何も起きていない。賑やかな猫がただ走り回って、呆れる私がただ見ていた。それだけの夕方。でも、こういう「それだけ」が積み重なって、日々というものはできているのかもしれない。麦の丸い背中を見ながら、冷めたコーヒーをひとくち飲んだ。苦かった。それでも、悪くなかった。

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