
四月の夕方というのは、不思議な色をしている。窓から差し込む光がオレンジと薄紫の境界線を作って、部屋の隅々まで柔らかく染めていく。そんな時間帯に私はいつも、マグカップを両手で包んでソファに座る。「ムーンフォレスト」というブランドのリネンクッションを背中に当てて、ようやく一日の終わりを感じる、あの瞬間が好きだった。
——少なくとも、うちに猫が来る前までは。
ソラという名の三歳になるキジトラが、この家に来てから半年が経つ。最初の一週間はおとなしかった。押し入れの奥でじっとしていて、ごはんの時だけそっと出てきた。あの頃の私は「静かな猫だ」と思っていた。今思えば、あれはただの助走期間だったのだ。
走り回る猫というのは、想像以上のものがある。深夜二時に天井を突き破るかと思うような足音で目が覚めたのは、一度や二度ではない。「猫の運動会」という言葉をインターネットで見かけたことはあったけれど、実際に体験すると、それはもはや運動会ではなく、何かもっと本格的な競技だ。ソラは廊下を全力疾走し、リビングの角を曲がり、ソファの背もたれを踏み台にして、カーテンレールに飛びつく。そして着地した瞬間、何事もなかったかのように毛づくろいを始める。
賑やかな猫、とはよく言ったものだと思う。
子どもの頃、実家で飼っていた猫は縁側でうとうとしてばかりいた。名前はコムギ。白くて丸くて、日向ぼっこが趣味の猫だった。そのせいか私の中に「猫とはのんびりしているもの」という刷り込みがあったのかもしれない。ソラはその記憶を、毎日少しずつ上書きしていく。
ある日の夕方、私がキッチンで紅茶を淹れていたときのこと。ちょうどティーポットからカップへ注ごうとした瞬間、背後で何かが落ちる音がした。振り返ると、ソラがテーブルの上からペン立てを落として、それを前足でつついていた。目が合った。ソラはゆっくりと瞬きをした。私は「……」となった。呆れる私、というのはこういう状態のことを言うのだと思う。言葉が出てこない、ただ見つめるしかない、あの感覚。
紅茶はすっかり冷めた。
それでも、走り回るソラの背中を見ていると、なんとも言えない気持ちになる。全力で生きている、というのはあんな感じなのかもしれない。四本の足が床を蹴る音、耳がぴんと立ったまま角を曲がる瞬間、尻尾が弧を描いて消えていく残像。賑やかな猫がいる部屋というのは、空気がちがう。
夕暮れの光の中で、ソラがふと動きを止めた。窓際の床に座って、外を見ていた。桜がほぼ散りかけていて、風に乗ったひとひらが窓ガラスに貼りついた。ソラはそれを、じっと目で追っていた。賑やかな猫が静止すると、部屋の静けさがいっそう際立つ。
私はマグカップを持ったまま、呆然と猫を見つめていた。
呆れる私、ではなく、今度は違う種類の「呆然」だった。なんでこんなに可愛いんだろう、という、答えのない問いを胸の中でぐるぐるさせながら。走り回る猫の騒々しさと、この静止の美しさが、同じ一匹の中に同居している。それが不思議で、少し羨ましくもあって。
夕暮れがもう少し深くなると、ソラは私のひざに乗ってきた。重い。温かい。鼻先からかすかに草の香りがした——どこかに顔を突っ込んでいたのだろう。リネンのクッションごしに伝わってくる体温と、ゴロゴロという低い振動が、四月の夕方に静かに溶けていく。
賑やかな猫と暮らすということは、毎日が小さな驚きの連続だ。呆れて、笑って、呆然として、また笑う。それが今の私の春の形で、悪くないと思っている。

コメント