
夏の夕方、窓から差し込む光が少しだけオレンジを帯びはじめた時間帯のことだった。エアコンの設定温度を26度に固定したまま、私はソファに深く沈み込み、ずっと積んでいた一冊をようやく開いた。タイトルは『灰色の午後、透明な夜』。架空の港町を舞台にした静かな恋愛小説で、友人に勧められてから半年も本棚の隅に眠らせてしまっていた本だ。
ページをめくるたびに、物語の空気が部屋に溶け込んでくるような気がした。主人公がひとり、古い灯台のそばに立っている場面。読書する私の意識は、じわじわと別の時間軸へ引き込まれていった。
そのとき、太ももの上に、ずしりとした重みが乗った。
むぎだった。生後三年になる茶白のオス猫で、名前の由来は丸くてふっくらした体型から来ている。むぎは私の膝の上でくるりと一回転し、本と私の顔のちょうど間に、自分の顔を割り込ませた。ページの文字が、毛並みで半分隠れる。
「ちょっと、今いいところなんだけど」と心の中でつぶやきながら、それでも手は自然にむぎの背中へ伸びていた。指先に伝わる、夏でも温かい毛の感触。むぎは目を細め、のどをごろごろと鳴らす。その振動が、膝を通して体全体に伝わってくるような気がした。
邪魔をする猫、というのはよく言ったものだと思う。でも実際のところ、邪魔というより「割り込み」に近い。むぎは私が何かに集中しはじめると、決まってこうやってやってくる。仕事のときも、スマホを見ているときも、そして読書するときも。まるで「あなたの意識が、私以外のものに向いている」という事実が、どうにも許せないらしい。
子どもの頃、祖母の家にも猫がいた。縁側でひなたぼっこをしながら、祖母の膝の上で眠る白い猫。私がそっと近づくと、猫はいつも片目だけ開けてこちらを見た。あの視線を、今でも時々思い出す。むぎの目にも、どこかあの猫と同じ色がある気がして、不思議な気持ちになることがある。
むぎが前足を伸ばし、本のページに肉球をぺたりと置いた。そのまましばらく動かない。ページが押さえられて、めくれない。愛おしい猫だとは思っているが、こればかりは少し困る。しかも今日に限って、むぎの肉球がちょうど「灯台のそばで、彼女は言った——」という文の途中にかかっていて、続きが読めない。何を言ったのか。気になる。でも、むぎをどかす気にはなれなかった。
しばらくそのままにしていると、むぎはふと顔を上げ、私の顎の下にぐりぐりと頭をこすりつけてきた。猫の毛の匂いというのは、なんとも言えない。日向と、少しの土と、それから何か甘いような、懐かしいような香りが混じっている。その匂いを嗅ぐたびに、なぜか肩の力が抜ける。
読書する私は、完全に敗北していた。本は閉じられ、むぎは満足そうに目を閉じ、部屋の中には夕方の光と、エアコンの低いうなりと、猫のごろごろ音だけが残った。
ふと思い返すと、この日の読書時間はおよそ十五分だった。積んでいた期間は約半年。効率としては、なかなかひどいものである。でも不思議と、悔しいという気持ちがわかなかった。むしろ、ちょっと得をしたような気分すらあった。
邪魔をする猫がいる生活というのは、読書の進みが遅くなる代わりに、何か別のものが積み重なっていく。言葉にするのは難しいけれど、むぎが膝の上で眠っている時間の重さのようなもの。それは本の一ページよりも、もしかしたら少しだけ大切なものかもしれない。
窓の外では、ヒグラシがひとつ、鳴きはじめていた。むぎの耳がぴくりと動き、また静かになった。愛おしい猫だと、改めて思った。本の続きは、明日でいい。

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