本を読む私の膝の上に、愛おしい猫がいる

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八月の夕暮れどき、窓から差し込む光がオレンジ色に部屋を染めていた。エアコンの効いた室内はひんやりとしていて、それでも窓ガラス越しに夏の名残りがじわりと伝わってくる。私はソファに深く沈み込み、ずっと積んだままにしていた一冊の文庫本をようやく開いたところだった。

その本は、北欧の小さな港町を舞台にした静かな恋愛小説で、「ヴェルデ文庫」という架空のレーベルから出ている、表紙の青が美しい一冊だ。ページをめくるたびに、塩と霧の混じったような海の香りが文章から立ち上ってくる気がした。読書する私にとって、この時間は一日の中でいちばん贅沢な瞬間だ。

静寂が続いたのは、ほんの数分のことだった。

気配を感じる前に、重さがきた。文庫本の上に、ふわりとした何かが降ってくる感触。見ると、三歳になる茶トラのムギが、開いたページの上にそのまま四肢を折り畳んで座っていた。しかも、なんとも満足そうな顔で。私はとっさに「ちょっと、そこ物語の一番いいところなんだけど」と心の中でツッコんだが、ムギはまったく動じない。それどころか、ゆっくりと目を細めてみせた。これは完全に確信犯だと思う。

猫は読書やパソコン作業の意味を知らない。飼い主がヒマそうにぼんやりしているように見えるのだという。
確かにムギの目には、私がただ薄い紙の束を眺めて動かない奇妙な生き物として映っているのかもしれない。だとしたら、「なぜかまってくれないんだ」と思うのも、無理はない。

読んでいる本の上にわざと座って、無理矢理視界に入ろうとする猫の行動は、かまってほしいというサインだ。
邪魔をする猫というのは、世界中の猫飼いが共感する光景だろう。でも実際にそれをされると、困る以上に、胸の奥がじわりと温かくなる。

ムギの体温が本越しに伝わってくる。夏なのに、その温もりが不思議と心地よかった。指先でそっと背中を撫でると、喉の奥からごろごろと低い振動音が聞こえてくる。子どもの頃、実家で飼っていた猫も同じようにこの音を鳴らしていた。あの頃は宿題の最中に邪魔されて本気で怒っていたのに、今となってはその記憶すら愛おしい。

ムギはしばらくじっとしていたかと思うと、今度は顔を上げてこちらをまっすぐ見た。琥珀色の瞳が夕陽を受けてきらりと光る。それから小さく「にゃ」と一声だけ鳴いた。長くもなく、短くもない、ちょうどいい温度の声だった。

猫のかまってほしいサインにきちんと応えてあげることで、信頼関係を築くことができる。
それはわかっている。でも今日の私は、本を閉じることにためらいがなかった。物語の続きはまた明日でいい。

ムギをそっと抱き上げると、温かい体がしっくりと腕の中に収まった。窓の外では蝉の声が少し遠くなり、夕暮れの光が部屋の隅まで柔らかく伸びていた。読書する私の時間を邪魔した愛おしい猫は、今や完全に満足した顔で目を閉じている。

本は、まだそこにある。ページは開いたままだ。でも不思議と、焦る気持ちはない。ムギのぬくもりを感じながら、私もゆっくりと目を閉じた。夏の終わりの、静かな午後のことだった。

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