
夏の午後二時すぎ、窓から差し込む光がフローリングの上にゆるやかな四角形を描いていた。エアコンの風がカーテンをわずかに揺らすたびに、その四角形がゆっくりと形を変える。ムギ——うちの猫——はその光だまりのど真ん中に、まるで最初からそこに置かれていたかのように丸くなっていた。
猫と暮らすようになってから、時間の流れ方が変わった気がする。
以前は休日の午後でも、なんとなくスマホを手放せなかった。何かをしなければという焦燥感が、いつもどこかにあった。でも今は違う。ムギがあの光の中で目を細めているのを見ていると、「何もしない」ことの豊かさみたいなものが、じんわりと体に染み込んでくる。
食事の支度をしながら、ふと子どもの頃を思い出すことがある。実家にも猫がいた。茶トラの、たいへん自由な性格の猫で、夕飯時になると台所にやってきては、母の足元にまとわりついていた。母が魚を焼くと、家中に香ばしい煙の匂いが広がって、その猫はいつも台所の入り口で鼻をひくひくさせていた。猫と私と食事の記憶は、いつも一緒にある。
今日の夕食は、ムギのごはんと同時進行で作った。ムギ用の鶏ささみを小さく刻みながら、私は自分の分のトマトを切る。猫と私、それぞれの食事の準備をするこの時間が、なんだか好きだ。ムギは冷蔵庫を開ける音を聞きつけて、どこからともなく現れ、足元でくるくると旋回しはじめる。その重みが足の甲に乗ってくるときの、ほんのりとした温かさ。あれは言葉では説明しにくい感触で、ただただ愛おしい。
食事が終わると、ムギはまたいつもの場所へ戻っていく。今日はソファの背もたれの上。インテリアショップ「ノルテ・ハウス」で買った、グレーのリネン生地のソファで、ムギはそこがお気に入りだ。背もたれの上からこちらを見下ろしてくる眼差しは、なぜかいつも少し偉そうである。
猫と私の時間は、だいたいこんなふうにして過ぎていく。
ある夕暮れ、ムギがうとうとしながら私の膝の上に顎を乗せてきた。その重みと、規則正しい寝息と、毛並みの柔らかさ。動かせなくなった足がじんじんしてきても、なんとなく立ち上がれなかった。気づいたら一時間が経っていて、飲みかけのコーヒーはすっかり冷めていた。——これは小さな失敗なのか、それとも正しい午後の使い方なのか、今でもよくわからない。
猫と暮らすということは、自分のペースを手放すことでもあり、同時に本当のペースを取り戻すことでもあるのかもしれない。
窓の外では蝉が鳴いている。七月の夕方特有の、少し湿った空気が網戸越しに入ってくる。ムギはまた光の中に戻っていて、今度は完全に目を閉じていた。その寝顔を眺めながら、私も気づいたら目を細めていた。
猫と私の食事があって、眠りがあって、まったりとした時間がある。それだけで、今日という日は十分だと思える。そういう暮らしを、私はずっと続けていくのだと思う。


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