賑やかな猫に呆れる私——走り回る猫と、静かに崩れていく午後の話

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七月の夕暮れ前、窓の外から蝉の鳴き声がじわりと滲んでくる時間帯のことだった。

リビングのフローリングに、ひとすじの西日が斜めに差し込んでいた。その光の帯をまたぐように、うちの猫——名前はムギ、三歳のキジトラ——が突然、何かに憑かれたように走り出した。ソファの背もたれを蹴り、棚の角をかすめ、テレビ台の下をくぐり抜け、またソファへ。賑やかな猫、とはまさにこのことだと思う。いや、「賑やか」という言葉では少し足りないかもしれない。「嵐」に近い。

私はその瞬間、ちょうどアイスコーヒーを飲もうとしていた。グラスを口元に運びかけたところで、ムギの爆走が始まった。条件反射のように手が止まり、ただ呆然と猫を見つめる私がそこにいた。グラスを持ったまま、三秒か四秒か、完全に思考が停止していた。

子どもの頃、実家で飼っていた猫も同じだった。夜中の十二時を過ぎると突然スイッチが入って、暗い廊下を一人で走り回っていた。当時の私はそれを「猫の運動会」と呼んでいたけれど、今になって思えば、あの頃から猫という生き物の不可解さに魅了されていたのだと思う。理由を説明できない行動ほど、目が離せない。

ムギが走り回る猫になるのは、決まって夕方だ。午後五時を少し過ぎたあたり、光が橙色に傾いてくるころ。フローリングを蹴る音が、パタパタ、ドン、という独特のリズムを刻む。その音を聞くたびに、私はソファから腰を上げる気力をなくして、ただ眺めるしかなくなる。呆れる私、と言えばそうなのだが、正確には「呆れながら愛でている」という、なんとも中途半端な感情だ。

ムギが走り回るとき、部屋の空気がほんの少し動く。湿った夏の空気が撹拌されて、かすかに猫の体温の匂いが漂ってくる気がする。それは不思議と嫌な匂いではなく、むしろ「生きている何かがここにいる」という確かな感触に近い。

そういえば先週、友人に「猫と暮らしているとどんな感じ?」と聞かれて、うまく答えられなかった。「静かで癒される」と言おうとしたのだが、その日の夜にムギが私の読みかけの本の上で丸くなって動かなくなり、結局その本は三日間読めなかった。架空の話ではなく、本当のことだ。猫と暮らすとは、自分のペースを少しずつ猫に明け渡していくことなのかもしれない。

インテリアショップ「ネコノス」で買ったグレーのクッションが、今やムギの専用寝床になっている。人間用として購入したはずのそれは、すでに猫の毛に覆われていて、もとの色がよくわからなくなっていた。これもまた、呆れる私の日常のひとコマだ。

走り回る猫は、やがてぴたりと止まる。何事もなかったかのように、ソファの端に飛び乗り、前足を揃えて座る。目を細め、西日を受けてうっすらと輝く毛並みを整えながら、こちらをちらりと見る。その目には何も書いていない。なぜ走ったのか、何を追いかけていたのか、ムギは何も教えてくれない。

私はようやくアイスコーヒーを一口飲む。氷がとけてすこし薄くなっていた。

賑やかな猫と暮らすとは、こういうことだと思う。説明のつかない嵐が来て、去って、静けさだけが残る。その繰り返しの中で、気づけば私はずっと猫を見つめている。呆れているのか、見惚れているのか、自分でもよくわからないまま、今日も夕方がやってくる。

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