猫と私の、梅雨どきのまったり食事時間

Uncategorized

ALT

雨の音が、窓の外でずっと鳴っている。六月の雨は、五月のそれとは少し違う。重くて、湿っていて、どこか粘り気がある。カーテンを引いた部屋の中は薄暗く、でもそれが妙に心地よくて、わたしはソファに深く沈み込んだまま、しばらく動けずにいた。

猫と暮らすようになってから、こういう時間の感じ方が変わった気がする。

うちの猫の名前はムギ。三歳になる薄茶色のキジトラで、保護猫カフェから引き取った。出会ったのは二年前の秋の終わり、木の葉がもう半分も落ちていた頃だった。あの日のカフェの窓ガラスに、黄色い葉が一枚貼りついていたことを今でも覚えている。ムギはその窓の前で、丸くなって眠っていた。

猫と私の暮らしは、ゆっくりと始まった。最初の一週間、ムギは押し入れの奥から出てこなかった。ごはんだけ食べに来て、また消えた。それでも、わたしは無理に近づかなかった。ただ、毎朝同じ時間に同じ場所にごはんを置いた。その繰り返しだった。

今日の昼、ムギの食事の準備をしながら、わたしも自分の昼ごはんを作った。冷蔵庫に残っていたトマトと卵でスープを作り、パンを一枚焼いた。架空のインテリアショップ「ノルドハウス」で買った白い深皿に注いで、テーブルに置く。スープの湯気がふわりと立ち上がって、窓の向こうの雨の気配と混ざった。

ムギはわたしが食事をしているあいだ、必ずそばにいる。テーブルの端に前足をかけて、じっとスープを見ている。食べたいわけじゃないと思う。ただ、一緒にいたいのだ。哺乳動物学者の研究によれば、猫は信頼を築いた相手には特別なしぐさでコミュニケーションをとることがあるという。ムギのこの習慣も、たぶんそういうことなのだろう。

スープを一口飲んで、ふと思い出す。子どもの頃、祖母の家の縁側に野良猫がよく来ていた。祖母はいつも、自分の昼ごはんの端っこを少しだけ皿に移して、縁側に置いた。「一緒に食べるとおいしくなる」と言っていた。その言葉の意味が、今になってようやく分かる気がする。

ムギが前足をそっとわたしの膝に乗せた。重さにしてたぶん三百グラムくらい。でも、その小さな温もりが、なぜかひどく安心する。肉球の感触はひんやりしていて、それがまた心地よかった。

食事を終えて、食器を洗う。流しの水音がぱちゃぱちゃと響く中、ムギはいつの間にかソファに戻って、今度は完全に目を閉じていた。耳だけがわずかに動いていた。雨音を聞いているのか、それともわたしの気配を追っているのか。

猫と暮らすとは、こういうことだとわたしは思っている。大きな何かが起きるわけじゃない。ただ、同じ空気の中に、もうひとつの体温がある。それだけのことが、一日をずいぶん違うものにする。

ちなみに、先週の話だが、ムギのごはんを準備しようとして、うっかり自分の昼食用のトマトスープをムギの皿に注いでしまったことがある。ムギは一瞥して、そっぽを向いた。猫に「これ違う」と言われた日のことは、しばらく忘れられそうにない。

梅雨のまったりした午後は、まだ続く。雨の音と、ムギの寝息と、窓ガラスを伝う水の筋と。猫と私の食事時間は、それ自体が一種の儀式のようなものかもしれない。特別じゃないけれど、なくなったら困る、そういう種類の大切さだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました