猫と私の、ゆるやかな食事と、まったりとした時間のこと

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秋が、すこしずつ部屋に入り込んでくる。

九月の終わり、午後三時をまわったころ。窓から差し込む光がやわらかく傾いて、フローリングの上に長い四角形を描いていた。その光のちょうど真ん中に、うちの猫——麦茶色の縞模様が美しいキジトラの「きなこ」——が、まるで最初からそこにいるべくして存在していたかのように、丸くなって目を閉じていた。

猫と暮らすようになって、もう三年が経つ。

最初の一年は、正直なところ、戸惑いの連続だった。子どものころ、実家で犬を飼っていた記憶があって、生き物と暮らすことへの漠然とした自信があった。でも猫は、ちがった。呼んでも来ない。抱っこしようとすると、するりと逃げる。感情が読めない。あのころの私は、猫に振り回されながら、それでも毎晩ちゃんとごはんを用意して、小さな器に向かってひとりで「どうぞ」と言っていた。

食事の時間だけは、きなこのペースに完全に合わせることにしている。

朝七時と夜六時。この二回が、猫と私の、ほぼ唯一の「共同作業」だ。ウェットフードのパウチを開けると、あの独特のにおいが台所にひろがって、どこで寝ていたのかも分からないのに、きなこはいつの間にか足元に来ている。フローリングに爪を立てながら、ちょこちょこと歩く音。それだけで、一日がはじまる気がする。

ある日、器を床に置こうとした瞬間、きなこが待ちきれずに顔を突っ込んできて、私の手の甲をぺろりと舐めた。温かくて、ざらりとした感触。ほんの一秒のことだったけれど、なんだかじんわりした。これが愛情なのか、単に手がウェットフードのにおいをまとっていただけなのか、今もよくわからない。たぶん後者だとは思うけれど、信じないことにしている。

まったりとした時間というのは、意識して作るものではなくて、気づいたらそこにあるものだと、猫と暮らすようになってから思うようになった。

たとえば今日みたいな午後。コーヒーを淹れて、架空のインテリアブランド「ノルドリーフ」のリネンブランケットを膝にかけて、ソファに座る。きなこは光の四角形から少し移動して、今度は私の足の上に顎を乗せてくる。重い。でもどかせない。そのまま本を開くと、ページをめくるたびに紙の乾いた音がして、窓の外では風が金木犀のにおいを運んでくる。九月の終わりに金木犀、少し早いかもしれないけれど、今年はそういう年らしい。

猫と私の食事は、ほぼ交互に訪れる。

きなこのごはんが終わると、私が台所に立つ。今日の夕食は、切り干し大根の煮物と、玉子焼きと、白いごはん。特別でも何でもない、ただの夕ごはん。でも、きなこが食後の毛づくろいをしている横で、私もゆっくり箸を持つ。お互い、自分のペースで食べている。そういう時間が、妙に心地よい。

猫と暮らすことは、生活に「余白」を作ることだと、どこかのブログで読んだことがある。最初はピンと来なかった。でも今はわかる。きなこがいるから、私はちゃんと夜六時に帰ろうとする。きなこがいるから、朝ごはんを抜かなくなった。きなこがいるから、週末に何もしない午後を、罪悪感なく過ごせる。

光が少し傾いた。

きなこが、目をうっすら開けて、また閉じた。耳だけが、かすかに動いた。何かの音を聞いていたのか、それとも夢を見ていたのか。私には分からないし、きなこも教えてくれない。それでいい、と思う。

猫と私の時間は、いつもこんなふうに、静かに、ゆっくりと、流れていく。

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