
風が少しだけ涼しくなった九月の夕暮れ、窓から差し込む光がオレンジ色に傾きはじめた頃、私はまた浴室へ向かった。腕の中には、三毛猫のムク。体重は4.2キロ。見た目は丸くて穏やかなくせに、お風呂の扉が見えた瞬間だけ、信じられないほどの力を発揮する。
猫の入浴というのは、どう表現しても「静かな作業」にはならない。
シャワーヘッドを手に取る前から、ムクはすでに察知している。私が「ペットフォーム・ナチュラルケア」のシャンプーボトルをカウンターに置いた音で、もう身構えていた。耳が横に倒れ、瞳孔がすっと縦に細くなる。あの目だ。「あなたのことは信頼していたのに」という目。
飼い主がシャワーをかけた瞬間に猫が見せる「この世の誰も信じられない」という表情は、SNSでも何度も話題になっている
が、実際に目の前でそれをやられると、笑いをこらえながらも少し申し訳なくなる。
お湯の温度は37度前後に設定する。
シャワーの温度はぬるめの37〜38℃が目安で、シャワーヘッドを体に密着させると水圧を感じにくくなる
と知ってから、ムクの暴れ方が少しだけマシになった気がする。気がする、だけかもしれないけれど。
足先から、そっとお湯をかける。しっぽの先、お尻、背中へと順番に。
いきなり背中や頭からお湯をかけると驚いてパニックになる可能性があるため、心臓から遠い足先やしっぽの先から少しずつ濡らしていくのがポイントだ
。頭ではわかっている。でも毎回、どこかのタイミングでムクが「にゃあ」と一声上げて、浴室がにぎやかになる。今日も例外ではなかった。
シャンプーの泡が立ち上るとき、かすかに緑茶のような草の香りがする。猫用の低刺激シャンプーだ。
人と猫では皮膚のpHが異なるため、人用シャンプーは皮膚や被毛にダメージを与えかねず、必ず猫用のものを使うべきだ
。この香りを嗅ぐたびに、子どものころ祖母の家で飼っていた白猫・シロを思い出す。あの子も水が大嫌いで、洗面台に連れて行くと毎回、祖母の腕に細かい引っかき傷が増えていた。懐かしいような、ちょっと痛いような記憶だ。
泡を指の腹でマッサージするように広げていく。ムクは観念したのか、震えながらも大人しくなってきた。背中の毛が水を含んでぺたりと貼りつき、普段の倍はあるように見えるふわふわのシルエットが、突然スリムな別の生き物になる。この瞬間がなんとなく好きだ。いつも見ているムクじゃないムクがいる。
すすぎが終わって、大判のタオルで包み込む。ここからが本当のにぎやかタイムで、ムクはタオルの中で全力でもがき、顔だけを出して「もう終わりにしてくれ」という顔をする。ドライヤーの音は苦手なので、
猫がドライヤーを嫌がる場合は音に敏感な可能性が高いため無理をせず、しっかりとしたタオルドライで仕上げる
ようにしている。タオルを三枚使い、丁寧に、丁寧に。
きれいにしよう、という気持ちは本物だ。ただ毎回、きれいにしようとするたびに、ムクに「なぜこんな目に」という顔をされる。今日もそうだった。浴室を出たムクは、リビングの隅でしばらく自分でグルーミングをして、それから私のひざに乗ってきた。
——ちなみに、今日だけで私のTシャツは二枚目だ。
乾いた毛がふわりと戻り始めたムクの背中を撫でながら、窓の外の夕空が少しずつ紺色に変わっていくのを眺めた。猫の入浴は毎回、こんなふうに終わる。騒がしくて、びしょびしょで、それでも最後はなぜか穏やかだ。


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