
九月の初め、空気がほんの少しだけ変わる。夏の重さがまだ残りながら、それでも夕方になると窓から入ってくる風がわずかにやわらかい。そんな季節の端っこで、私は毎日のように同じことをしている。台所に立って、食事の支度をして、ソファに腰を下ろす。そして気づけば、隣に彼女がいる。
彼女というのは、うちの猫のことだ。名前はすず。三歳になったばかりのキジトラで、気分屋で、でも寒くなると必ずひざの上に乗ってくる。猫と私の暮らしが始まって、もうすぐ二年になる。
猫と暮らすと決めたとき、正直なところ少し怖かった。責任というものが、ずっしりと胸にのしかかるような感覚があった。でも今となっては、あの不安は何だったのだろうと思う。すずは私の生活の中に、ごく自然に溶け込んでしまった。まるで最初からここにいたかのように。
食事の時間が、特に好きだ。私が台所に立つと、すずはどこからともなく現れて、足元をゆっくりと歩き始める。何かを訴えているわけでもなく、ただそこにいる。フライパンからバターの香りが立ち上って、窓の外では夕暮れが橙色に広がっている。そういう瞬間に、妙な充足感がある。言葉にするのが難しい、でも確かにある、あの感じ。
先日、近所の雑貨店「ノルディカ・ルーム」で見つけた小さなリネンのランチョンマットを食卓に敷いてから、なんとなく食事の時間がより丁寧になった気がする。たいしたことではないのだけれど、こういう小さな変化が日常をじんわりと変えていく。すずはそのランチョンマットの上に前足を乗せて、私の食事をじっと見ていることがある。食べたいのかと思ってよく見ると、どうやら私の箸の動きに興味があるらしい。猫というのは本当に、不思議な生き物だ。
子どもの頃、実家にも猫がいた。茶トラの大きな雄猫で、名前はポン太といった。ポン太はいつも縁側で昼寝をしていて、私はその隣に転がって、一緒にうとうとしていた。あの縁側の、夏の木の匂い。日が差し込んで、畳がじんわり温かかったこと。猫と私の間に流れていた、あの時間の感触を、今もどこかで探しているのかもしれない。
猫と暮らすということは、時間の感覚が変わることでもある。すずが窓辺で丸くなっているのを眺めていると、急いでいたはずのことが、どうでもよくなってくる。メールの返信も、明日の段取りも、少しだけ遠くなる。これは怠惰なのだろうか。そうは思わない。ただ、「今ここにいること」を思い出させてくれる時間なのだと、最近は感じている。
先週の夜、夕食を終えてハーブティーを飲んでいたとき、すずがソファの背もたれからゆっくりと降りてきて、私の膝の上にそっと乗ってきた。温かかった。猫の体温というのは人間より少し高くて、ひざの上がじんわりと温まっていく。手のひらで背中をなでると、喉の奥から低いゴロゴロという音が聞こえてくる。あの音を聞くたびに、何かが解けていくような気がする。
ちなみに、そのとき私はハーブティーをすずの頭にこぼしそうになった。急に乗ってきたものだから、カップを持つ手がぐらりとして、心の中で「あ、危ない」と叫んだのだが、すずは一切気にせず目を細めていた。あの泰然とした顔には、毎回ちょっと負ける気がする。
猫と私の関係は、対等ではないかもしれない。でも、一方的でもない。すずは私に何かを求めるとき、鳴くのではなく、ただじっとこちらを見る。その視線の重さが、不思議と心に届く。言葉のない対話というのは、こういうことなのだろうか。
猫と暮らす日常は、劇的ではない。ドラマチックな出来事は、ほとんど起きない。でも、その静けさの中に、確かな豊かさがある。食事を作り、食べ、片づけて、すずと並んで夜を過ごす。そのくり返しの中に、私はいつの間にか、自分の「まったりした時間」を見つけていた。
急がなくていい夜というのが、人生にはある。そういう夜を、猫はいつも知っている。

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