
十月の午後というのは、妙に光が斜めになる。窓から差し込む日差しがフローリングの上に細長い四角形を描いて、そこだけ世界が切り取られたみたいに見える。私はソファに腰を沈め、淹れたばかりのコーヒーを両手で包んでいた。ブランド名で言えば「カフェ・ノルテ」というインテリア雑貨店で買った、少し厚みのあるマグカップ。陶器の温度が手のひらにじんわり伝わってきて、それだけで少し息が楽になる気がした。
そのとき、廊下の奥から音がした。
最初は小さく、次第に大きく——パタパタパタ、という四つ足の足音が、まるで誰かが小太鼓を踏み鳴らすように近づいてくる。賑やかな猫、というのはまさにこういうことを言うのだと思う。うちの猫、麦(むぎ)は生後二年が経った今もまだ、何かにとり憑かれたように家中を走り回る。
走り回る猫というのは、見ていると笑えるようで笑えない。本人(本猫?)はいたって真剣なのだ。何かが見えているのか、何かを追いかけているのか、それとも単純に余剰エネルギーが爆発しているだけなのか。私にはわからない。ただ、ソファの前を猛スピードで横切った麦が、勢いあまってカーペットの端でずるっと滑り、壁に軽くぶつかってから何事もなかったように毛づくろいを始めたとき——思わず「大丈夫か」と声に出してしまった自分が少し恥ずかしかった。
呆れる私、というのもまた正直なところだ。コーヒーが冷める。せっかくの午後が、猫の運動会に消費されていく。でも、なぜか席を立てない。
子どもの頃、実家にも猫がいた。名前はトラ。ありきたりな名前だけど、ありきたりな猫ではなかった。夜中の二時ごろに突然走り出して、家族全員を起こすことを週に三回はやっていた。母が「もう!」と言いながら廊下に出ていく音を、布団の中で聞いていた記憶がある。あのとき私は笑っていた。今は自分がその「もう!」を言う側になった。
麦はリビングを一周して、またソファの前に戻ってきた。そして私の足元にすとんと座り、尻尾をゆっくり揺らしながらこちらを見上げた。何かを要求しているのか、ただ確認しているのか。その目が、秋の光を受けてほんのり琥珀色に透けていた。
香りといえば、コーヒーの湯気がまだかすかに漂っている。麦の毛並みからは、日向ぼっこの残り香みたいな、乾いた温かさがある。触れると少し静電気が走って、指先がちりっとする。それでも手を伸ばすと、麦は目を細めた。
呆然と猫を見つめる私、というのはこういう状態だ。怒っているわけでも、感動しているわけでも、特別に何かを考えているわけでもない。ただ、そこにいる。賑やかな猫が走り回り、疲れて戻ってきて、光の中に座っている。それを見ている。
十月の午後はまだ続いている。コーヒーはもうぬるい。

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