賑やかな猫に呆れる私——走り回る猫と、呆然と見つめるだけの午後

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十月の空気は、どこか薄い。窓から差し込む光がフローリングの上に細長く伸びて、その光の帯の上を、うちの猫——名前はムギ——が全速力で駆け抜けていった。

走り回る猫、というのはよく聞く話だ。でも実際に目の当たりにすると、そのエネルギーの理不尽さに毎回驚かされる。朝の七時半。私はまだコーヒーを一口も飲んでいなかった。インテリアブランド「ノルテ・ハウス」の白いマグカップを両手で包みながら、ソファの端に腰かけて、ただ呆然とムギを目で追っていた。

ムギは賑やかな猫だ。これは褒め言葉でも、けなし言葉でもない。ただの事実として、彼はいつも何かをしている。廊下を走る。棚の上から見下ろす。カーテンの裏に消えて、しばらくしてから何食わぬ顔で出てくる。静かにしているときでさえ、尻尾の先だけがゆらゆらと揺れていて、「今は休憩中です」と主張しながらも、次の行動を着々と計画しているような気配がある。

この日の朝も例外ではなかった。

ムギは突然、玄関からリビングまでの直線を三往復した。理由は不明。床に何か見えたのかもしれないし、見えていないのかもしれない。爪がフローリングを引っ掻く音が、まだ静かな室内にパタパタと響いた。その音が、子どもの頃に通っていた体育館の廊下を思い出させた。雨の日に、誰かが走るたびにキュッキュッと鳴る、あの感じ。懐かしいような、落ち着かないような。

呆れる私、というのも正確ではないかもしれない。呆れているというより、ただ追いつけない。思考が間に合わない。走り回る猫のスピードに、私の眠い脳みそが完全に置いてきぼりにされている。

三往復を終えたムギは、なぜか私の足元に来て、ぺたりと座った。そして前足を揃えて、こちらを見上げた。その目が「なにか用ですか」と言っているように見えて、思わず笑いそうになった——いや、笑った。声に出して。

マグカップから立ち上るコーヒーの香りが、ようやく鼻に届いた。少し深煎りで、苦みが強い。秋になると、なぜかこの苦みが心地よく感じる。窓の外では、隣家の金木犀がもう咲いているらしく、ほんのりと甘い匂いが混じってきた。コーヒーと金木犀。組み合わせとしては変かもしれないけれど、十月の朝にはなぜか似合う気がした。

ムギはしばらくじっとしていたかと思うと、今度はゆっくりと私の膝の上に乗ってきた。重い。六キロ近くある猫が膝に乗ると、それはもう「乗る」というより「押しつぶされる」に近い感覚だ。でも温かかった。秋の朝の、毛布代わりの温もり。

賑やかな猫と暮らしていると、静かな瞬間がいっそう際立つ。走り回る猫が、突然静止する。あの落差が、なんとも言えない。

私はコーヒーをひと口飲んだ。ムギは目を細めて、うとうとしはじめていた。さっきまであれほど全力で駆け回っていた生き物が、もう眠そうにしている。そのあっけなさに、また少し呆れる私がいる。でも、ずっと見ていられる。

呆然と猫を見つめる私。これが、うちの十月の朝の定番になっていた。特別なことは何もない。ただ、光と影とコーヒーと、走り回る猫と、それを追いかける視線だけがある。それで十分だと、最近ようやく思えるようになってきた。

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