
六月の朝は、光の入り方がすこし違う。カーテンの隙間から差し込む白い線が、畳んだままのニットの上でゆっくりと動いていた。梅雨の晴れ間というやつで、湿気を含んだ空気がほんのり温かく、まだ起き上がる気になれない。ベッドの中でまどろみながら、わたしはそのまま意識の浅瀬を漂っていた。
そのとき、毛布の端がかすかに動いた。
最初は気のせいだと思った。でも次の瞬間、小さくて重い何かがゆっくりとベッドの上を歩いてくる感触が、足のほうから伝わってきた。四つの肉球が一歩ずつ布団を踏みしめるたびに、体の重心がわずかにずれる。うちの猫、ムーン——灰色がかったロシアンブルーの雑種で、名前の由来はもう覚えていない——が、いつものように起こしに来たのだ。
猫に起こされる、というのはなかなか言葉にしにくい体験だ。目覚まし時計とは根本的に違う。アラームは容赦なく鳴り響くけれど、ムーンは違う。膝の裏あたりで一度丸くなり、しばらくじっとしている。まるでこちらの呼吸を測っているみたいに。そしてわたしが「起きていない」と判断したとき、初めて顔のほうへ近づいてくる。
鼻先に、ひんやりとした感触。
それが可愛い瞳と鉢合わせになる瞬間というのは、毎回少しだけ心臓が跳ねる。金色がかったグリーンの目が、まっすぐにこちらを見ている。「もう朝だよ」とも「おなかすいた」とも違う、ただそこにいる、という静けさをたたえた目だ。子どもの頃、実家で飼っていた犬が毎朝布団の上で待っていた記憶がふと蘇った。あのときも、目が合った瞬間に「起きなきゃ」と思ったものだ。不思議と、生き物の視線というのは目覚まし時計より効く。
ムーンはしばらくわたしの顔を見てから、おもむろに鼻先をわたしの頬に押しつけた。冷たい。そして湿っている。思わず笑ってしまった。これが毎朝の儀式だ。
ベッドの中でまどろんでいるとき、人はいろんなことを考える。今日の仕事のこと、昨日言い損ねた言葉、買い忘れた出汁パック。でもムーンが来た瞬間、そういうものが全部どこかへ行ってしまう。頭の中が、ただ「猫がいる」という事実だけになる。これはかなり贅沢な時間だと思う。
起き上がってキッチンへ向かうと、棚の上に置いてあるアロマディフューザー——「ノルディカ・センス」というブランドのもので、去年の誕生日に自分へのプレゼントとして買った——がほのかにシダーウッドの香りを漂わせていた。タイマーで朝六時に動き始めるよう設定してある。木の香りと、窓の外から入ってくる雨上がりの草の匂いが混ざって、朝の空気がすこし深くなる。
ムーンはわたしの足元にまとわりつきながら、小さな声で鳴いた。「にゃ」でも「みゃあ」でもない、ほとんど息だけのような音。これが「早くして」のサインだとわかるようになったのは、一緒に暮らして二年目のことだった。
フードを器に盛ると、ムーンはすぐに食べ始める。その小さな背中を眺めながら、わたしはコーヒーを淹れる。豆を挽く音が台所に広がって、六月の朝がようやく動き始める。
猫に起こされる朝というのは、強制的に「今」に引き戻される朝だ。昨日の続きでも、明日の準備でもなく、ただこの瞬間に、毛布の温かさと冷たい鼻先と可愛い瞳がある。それだけでいい、と思える朝が、最近少しずつ増えている。ムーンのおかげで、かもしれない。


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