
十月の午後というのは、どこかずるい。
窓から差し込む光がやわらかく斜めになって、フローリングの上に長い四角形を描く。その光の中に、うちの猫——チャコ——がすっぽりと収まって、目を細めていた。まるで自分がそこに置かれるために生まれてきたかのような、完璧な収まりかたで。
猫と暮らすようになって、もうすぐ三年になる。
最初は「ちゃんとやっていけるだろうか」と不安だったのに、気づけば私の生活リズムはすっかりチャコを中心に回っている。朝、目が覚める前にチャコの足音がする。夜、ソファに座ると必ず膝の上に乗ってくる。そういう小さな規則性が、いつの間にか私の一日の骨格になっていた。
今日は土曜日で、特に予定もなかった。
冷蔵庫を開けて、昨日の残りのかぼちゃのスープと、パンを温めることにした。それだけの食事だけれど、なぜか土曜の昼というのはそれで十分に満たされる気がする。猫と私の食事の時間は、いつもどこかそんな感じだ。豪勢でもなく、手を抜きすぎでもなく、ただ「今日の分」をちゃんと食べる、という感覚。
スープを温めている間、キッチンにハーブの香りが漂った。
乾燥タイムをひとつまみ入れただけなのに、それだけで空気がすこし変わる。チャコがひょいとキッチンの入り口に現れて、鼻をひくひくさせていた。食べられないものには興味がないくせに、香りには敏感なのだ。猫というのは、本当に不思議な生き物だと思う。
テーブルにスープとパンを並べると、チャコはいつものように椅子の隣に座った。
私が食事をするとき、チャコはじっとこちらを見ている。食べ物を欲しがっているわけではなく(たぶん)、ただ「一緒にいる」という感じで。その視線が、なんとなく好きだ。猫と私、それぞれが自分のペースで、同じ時間の中にいる。そういう食事のかたちが、今の私にはちょうどいい。
ふと、子どものころのことを思い出した。
実家では猫を飼っていなかったから、猫と暮らすことへの憧れは長いこと、憧れのままだった。近所のおばあさんの家に縁側があって、そこにいつも野良猫が来ていた。おばあさんがご飯をあげて、猫はのんびり食べて、また去っていく。その繰り返しを、私は塀の外からよく眺めていた。あの縁側の空気——日向の匂いと、猫の気配——が、今の自分の暮らしにどこか似ている気がする。
スープを一口飲んで、窓の外を見た。
空は高く、うろこ雲が薄く広がっていた。十月らしい空だ。チャコはいつの間にかソファに移動していて、丸くなりかけている。さっきまであんなに私を見ていたのに、もう夢の入り口にいるらしい。——そういえば、チャコが私の膝の上でうとうとしているとき、私が立ち上がろうとしてそっと体をずらしたら、チャコが一瞬だけ「え?」という顔をした。あの顔が忘れられない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない、ただ純粋に「なんで?」という顔。思い出すたびに、少しだけ笑ってしまう。
食事を終えて、コーヒーを淹れた。
使っているのは、近所の雑貨店で見つけた「ノルテ・ブレンド」という豆で、深煎りなのに後味がすっきりしている。カップを両手で包むと、じんわりとした温度が手のひらに広がった。チャコの毛並みに触れるときの感触とは全然違うけれど、どちらも「あたたかさ」という点では同じだと思う。
猫と私の午後は、こうして静かに続いていく。
何かを成し遂げるわけでも、どこかに行くわけでもない。ただ光の中にいて、食事をして、コーヒーを飲んで、眠そうな猫を眺める。それだけのことが、今日という日をちゃんと「今日」にしてくれる。猫と暮らすことを選んでよかった、と思う瞬間は、大きな出来事の中にあるのではなく、いつもこういう、どうということもない午後の中にある。

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