
七月の午後、窓から差し込む光がフローリングの上に細長い四角形を描いていた。湿度が高く、エアコンの設定温度を二十四度にしても、どこかじんわりとした熱が皮膚にまとわりついている。アイスコーヒーを一口飲んで、ようやく人心地ついたと思ったその瞬間、リビングの奥からドドドドド、という地響きのような音が聞こえてきた。
うちの猫、ムギが走り出したのだ。
ムギはスコティッシュフォールドとアメリカンショートヘアの雑種で、生後三年になる。体重は五キロを少し超えていて、決して軽くはない。そのムギが全力疾走するとき、床に伝わる振動は「猫が走っている」というより「何かが転がっている」に近い。ソファの背を蹴り、テレビ台の角をかすめ、カーテンにひとしきり爪を立て、また折り返してくる。理由は、わからない。
賑やかな猫、とはよく言ったものだと思う。猫を飼い始める前、私はどこかで「猫は静かな生き物だ」という幻想を抱いていた。犬ほど声を出さず、ひとりで遊び、気が向いたときだけそばに来る——そういう、どこか文学的なイメージ。だが実際に一緒に暮らしてみると、その幻想は初日の夜に粉砕された。ムギは夜中の二時に突然走り出すし、朝の五時には私の顔を前足でぺたぺたと叩いてくる。
呆れる私、というのが正直なところだ。
それでも、と思う。走り回る猫の後ろ姿を目で追いながら、私はぼんやりと子どもの頃のことを思い出していた。実家の縁側に、野良猫がよく遊びに来ていた。名前はつけていなかったけれど、耳の先がちぎれたように欠けていて、それが妙に愛嬌に見えた。その猫が庭を走るたびに、砂利を踏む音がじゃりじゃりと鳴った。あの音の質感は、今でも指先に残っているような気がする。
ムギはひとしきり走り終えると、息を整えるようにその場に座り込み、何事もなかったかのようにグルーミングを始めた。右の前足を舐め、耳の後ろをかく。その一連の動作がひどく丁寧で、思わず笑ってしまう。さっきまであれほど賑やかだったのに、今は哲学者のような顔をしている。
ちなみにこの日、私はムギの走り回る軌道を予測しようとして、ソファの横にさりげなく足を出した。「ここを通るはずだ」という読みで。見事に外れ、ムギは別のルートを爆走し、私はただ空気を踏んだだけだった。(心の中で静かにツッコんだ。「完全に無視された」と。)
窓の外では、夏の光が少しだけ傾き始めていた。ベランダに置いた北欧インテリアブランド「フィエルドラ」のプランターに植えたバジルが、風にゆれている。その香りがかすかに室内まで届いてくる。青くて、少し土っぽい、夏の午後だけが持つにおいだ。
ムギはいつの間にかソファの上に移動して、丸まっていた。目を細め、耳だけがときおりピクリと動く。さっきまでの賑やかさが嘘のように、部屋には静けさが戻っていた。アイスコーヒーの氷が溶けて、グラスの中でカランと鳴った。
呆然と猫を見つめる私。それが、この夏の午後の定位置になっている。走り回る猫に振り回されて、気づけば時間が過ぎていて、なぜか悪い気はしない。これが「賑やかな猫」との暮らしというものなのかもしれない。静かな文学的猫を夢見ていた過去の自分に、今の私は何を言うだろう。きっと何も言わず、ただムギの寝顔を見せてやるだけでいい。

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