
雨が降り始めたのは、午後二時をすこし過ぎたころだった。
ぽつ、ぽつ、と最初は遠慮がちに、それからだんだん躊躇いを忘れたように、窓ガラスを叩く音が部屋に満ちてくる。春の終わりかけの雨は、冬のそれよりも少しだけ温度を持っていて、窓に触れると指先がひんやりするというより、ただしっとりと湿る感じがする。
ソファに腰を下ろしてぼんやりしていたら、気づけば隣に麦茶色の塊がいた。うちの猫、ムギだ。正確には「ムギコ」という名前なのだが、呼ぶたびに三文字が面倒になって、いつの間にかムギになった。当の本人は特に気にしていない様子で、今日も窓の外をじっと見つめている。
外は雨。それでもムギの視線は揺るがない。
雨粒が伝う窓ガラスの向こうに、何が見えているのだろう。ベランダの手すりを叩く雨の跳ね方、隣の家の屋根から流れ落ちる細い水の筋、それとも遠くの電線に一羽だけ残った鳥の影か。猫というのは、ああいう顔で何を考えているのかがまるでわからない。わからないまま、外を見つめる猫の横顔を、私もなんとなく見ていた。
気がつくと、一緒に見つめる私がいた。
外を見ていたのか、ムギを見ていたのか、もうその境界線はあやふやで、ただ雨の音だけが部屋を満たしていた。先日、インテリアショップ「ノルデンフォグ」で買ったリネンのクッションカバーが、ソファの端でくたりと傾いている。そういえばあのとき、ムギがショップバッグに頭を突っ込んで出られなくなっていた。しばらく袋ごとよたよた歩いてから、ようやく自力で脱出して、何事もなかったような顔でグルーミングを始めたのだった。思い出すたびに少し笑ってしまう。
雨の日の猫は、動きが鈍くなる。これは昔から言われていることで、野生の頃の名残りだという話を読んだことがある。獲物が隠れ、においが流れ、雨の中を走り回っても得るものが少ない。だから休む。体の奥に刻まれた記憶が、今日もムギをこの窓辺に縛り付けているのかもしれない。
子どもの頃、実家の縁側に座って、祖母と二人で雨を見ていたことを思い出した。祖母はほとんど何も言わなかった。ただ庭の紫陽花が揺れるのを、お茶を飲みながら眺めていた。あのときの静けさと、今日のこの部屋の静けさが、どこかで重なる。猫がいるかどうかの違いだけで、雨の音は同じだ。
ムギがふと、鼻をひくつかせた。
雨の匂いを嗅いでいるのか、あるいはキッチンに置いたままの昨日の夕飯の残り香を察知したのか、それは定かではない。ただ小さな鼻が動いて、それからまた視線が窓の外へ戻っていった。ガラスに映る自分の顔と、外の雨とを、どちらとも見ているような、どちらとも見ていないような、あの独特の目つき。外を見つめる猫の目には、いつも少しだけ遠い場所が映っている気がする。
私はそっと、ムギの背中に手を置いた。温かい。雨の日の猫の体温は、なぜかいつもより少しだけ高く感じる。そんなことはないとわかっていても、そう感じてしまう。手のひらに伝わるゆっくりとした呼吸、わずかに揺れる毛並み。
雨はまだ続いている。外は雨のまま、窓の向こうは灰色で、それでもどこかやわらかい。特別なことは何もない午後だけれど、こういう時間がいちばん長く記憶に残る気がして、私はしばらくそのままでいることにした。ムギも動かなかった。
ただ、雨を、一緒に見ていた。

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