猫と暮らす台所で気づいた、食事の時間が持つ意味

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猫を飼い始めてから、自分の食事がやたらと遅くなった。

別に料理の腕が落ちたわけじゃない。ただ、キッチンに立つとすぐに足元にまとわりついてくるあの子の存在が、何かを変えてしまったんだと思う。朝の7時、まだ薄暗い台所で包丁を握ると、必ず聞こえてくる「にゃあ」という声。冷蔵庫を開ける音に反応しているのか、それとも私の足音を覚えているのか。最初の頃は邪魔だと思っていたけれど、今ではこの小さな儀式がないと一日が始まらない気がしている。

猫の食事時間と人間の食事時間は、不思議なことに重なり合う。私が朝ごはんの準備を始めると、彼女も自分の器の前で待機する。カリカリのドライフードを入れる音、私がトーストを焼く音、お湯を沸かすケトルの音。それぞれが別々のリズムを刻みながら、なぜか調和している。

そういえば去年の冬、友人が「猫って飼い主と一緒に食べたがるらしいよ」と言っていたのを思い出す。当時は「そんなわけないでしょ」と笑い飛ばしていたんだけど。

実際に暮らしてみると、あながち間違いでもなかった。私が椅子に座って食事を始めると、彼女も自分の器に顔を突っ込む。私が箸を置くと、彼女も顔を上げる。まるで息を合わせているみたいに。この同期性には科学的な根拠があるのかもしれないし、単なる偶然かもしれない。どちらでもいいけれど、この時間が妙に心地よいことだけは確かだった。

休日の昼下がり、キッチンの窓から差し込む光が床に四角い模様を作る。その光の中で丸くなっている猫を見ながら、私は適当にパスタを茹でる。トマトソースの酸っぱい匂いが部屋中に広がって、それに混じってどこからか猫の毛の匂いもする。動物を飼うって、こういう生活臭も含めて受け入れることなんだろう。

前の職場の先輩が「ペットがいると外食が減る」と言っていた意味が、ようやく分かってきた。別に猫が寂しがるからとか、そういう感傷的な理由じゃない。ただ単純に、家で食事をする時間が豊かになったから、わざわざ外に出る必要性を感じなくなっただけ。一人暮らしの頃は、料理なんて面倒で仕方なかった。コンビニ弁当で済ませることも多かったし、夜中にカップ麺をすすりながらスマホを見ている自分に、特に疑問も持たなかった。

でも今は違う。食材を切る音、火が通る音、器を並べる音。これらすべてに小さな観客がいる。時々、まな板の上に前足を乗せてこようとするから困るんだけど。

「ダメだよ、危ないから」と言いながら抱き上げると、不満そうに鳴く。でもすぐに諦めて、少し離れた場所から私の手元を見つめている。その視線を感じながら作る料理は、なぜか丁寧になる。誰かに見られているという意識が、手抜きを許さない。

夕方の6時、仕事から帰ってきて最初にすることは、猫の夕食の準備だ。自分のことは後回しでいい。玄関を開けた瞬間から始まる「お腹空いた」アピールに負けて、まずは彼女の器にフードを入れる。それから自分の食事に取りかかる。この順番が逆になることは、もうない。

食事中、テレビをつけることが減った。代わりに猫の食べる音を聞いている。カリカリという乾いた音が、妙に落ち着く。人間の咀嚼音は不快なのに、猫のそれは心地いいのはなぜだろう。食べ終わった後の、口周りを舐める仕草も好きだ。満足そうな表情で、ゆっくりと毛づくろいを始める。

たまに思う。この子がいなかったら、私の食生活はどうなっていただろうって。多分、今よりもっと適当で、もっと孤独だったと思う。食事って結局、誰かと時間を共有する行為なんだと気づかされた。相手が人間である必要はなくて、同じ空間で同じ時間を過ごせる存在がいれば、それだけで十分だったりする。

深夜、小腹が空いてキッチンに立つと、暗闇の中で光る二つの目と遭遇する。「夜食?」とでも言いたげな表情。付き合ってくれるのかと思いきや、すぐに興味を失って去っていく…まあ、そんなものか。

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