
九月の終わり、午後三時をすこし過ぎたころ。窓から差し込む光が畳の上でゆっくりと伸びていて、空気はまだかすかに夏の名残を帯びていた。そんな静かであるべき時間に、うちの猫——麦(むぎ)は、突然何かに取り憑かれたように走り出した。
廊下から居間へ。居間からキッチンへ。そしてまた廊下へ。
足音が小さな地響きのように床を伝ってくる。パタパタではなく、もはやドドドと表現するほかない。賑やかな猫、とはよく言ったものだが、これは賑やかというより、もはや騒乱だ。私はソファに腰を落としたまま、湯気の立ちのぼるコーヒーカップを両手で包み、ただ呆然と麦の背中を目で追い続けた。
何がそんなに楽しいのか。何がそんなに怖いのか。それとも、猫の世界では今この瞬間、私の知らない何かと戦っているのだろうか。
思い返せば、子どもの頃に実家で飼っていた猫も、こんなふうに夕方になると突然スイッチが入ったように走り回っていた。当時の私はそれを「夕方病」と呼んでいて、母に得意げに説明したら「そんな病気はない」とあっさり却下された。あの頃から、猫という生き物は私の理解の外側にいる。
走り回る猫を目で追いながら、私はふと、インテリアブランド「ノルトハウス」で買ったローチェアの肌触りを感じていた。ざらりとしたリネン素材が、少しひんやりとして心地よい。コーヒーの香りが鼻をかすめる。窓の外では、金木犀がもう咲き始めているのか、甘くてどこか切ない香りが風に乗って室内まで届いていた。秋はこんなふうに、ひっそりと忍び込んでくる。
麦が走るたびに、窓際に置いたガラスの花瓶がかすかに揺れる。私は思わず立ち上がりかけて、でもまあいいか、と座り直した。これが「呆れる私」の正体だ。怒るでもなく、止めるでもなく、ただ受け入れてしまっている。猫に飼われているのは、もしかすると私のほうかもしれない。
五分ほど走り続けた麦は、何事もなかったかのようにぴたりと止まり、そのままその場でぺたんと座り込んだ。そして私の顔をじっと見た。その目が、まるで「何か?」と言っているようで、思わず吹き出しそうになった。いや、こっちのセリフだ。
しばらくすると麦はゆっくりと近づいてきて、私の膝の上に前足をのせた。その肉球が、ほんのすこし温かくて、ほんのすこし重かった。走り回った後だからか、体温がいつもより高い気がする。私はそっと頭を撫でた。麦は目を細めた。
賑やかな猫と、呆れる私。この組み合わせは、きっとこれからも変わらない。走り回る猫の背中を見つめながら、私はまたコーヒーを一口飲んだ。少し冷めていたけれど、それでもよかった。秋の午後は、そういうものだと思う。
ふと気づけば、窓の外の光がまたすこし傾いていた。麦はもう眠っている。さっきまでの嵐が嘘のように、部屋は静かだ。この静けさも、この賑やかさも、どちらも同じ一日の中にある。それが、猫と暮らすということなのだろう。私はそう思いながら、また呆然と、眠る麦の背中を見つめていた。

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