
夏の盛りというのに、この部屋だけ時間の流れが違う気がする。カーテンの隙間からこぼれる八月の午後の光が、フローリングの上に細長い帯をつくっていた。その帯の上に、ちょうど体の半分だけ乗っかるようにして、うちの猫——麦茶色のしま模様をした「きなこ」が、丸くなって眠っている。
猫と暮らすようになってから、もうすぐ三年が経つ。最初の頃は、こんなにも「何もしない時間」を愛せるようになるとは思っていなかった。
きなこが来る前の私は、休日でも何かをしていないと落ち着かない人間だった。予定を詰め込み、タスクをこなし、夜になってようやくソファに倒れ込む。それが「充実」だと信じていた。でも今は違う。
土曜の昼過ぎ、台所でパスタを茹でながら、私はぼんやりと窓の外を見ていた。近所の神社の欅が、夏の風にゆっくり揺れている。お湯が沸く音、麺がぐるりと回る音。それだけが台所に満ちていた。ガーリックオイルの香りが部屋に広がると、どこからともなくきなこがやってきて、私の足元に座り、しっぽをゆらゆらと振り始めた。食事の気配には敏感なのだ、この子は。
皿に盛りつけてテーブルに着くと、きなこはすかさず椅子の隣に陣取り、じっとこちらを見上げてくる。「あなたの分はありませんよ」と目で伝えると、ふいと顔をそらして毛づくろいを始めた——あの「別に興味なかったし」感は、いつ見ても清々しいほど完璧だと思う。
猫と私の食事風景は、いつもこんな感じだ。
子どもの頃、実家では犬を飼っていた。犬はいつも全力で喜びを表現してくれたけれど、猫はそうじゃない。近くにいるのに遠い。でもその「遠さ」の中に、確かな温もりがある。ある朝、うとうとしながらソファで本を読んでいたとき、気づいたらきなこが膝の上に乗っていた。重さと体温が、じんわりと太ももに伝わってくる。ページをめくる手を止めて、しばらくそのまま動けなかった。
猫と暮らすということは、こういうことの積み重ねだと思う。
最近お気に入りのインテリアショップ「ノルネスト」で買ったリネンのクッションカバーが、きなこにとっても居心地がいいらしく、気づくとそこが定位置になっていた。人間のために選んだものが、いつの間にか猫のものになっている。猫と私の暮らしでは、所有権というものがひどく曖昧だ。
午後三時を過ぎると、光の帯が少し角度を変えて、きなこの背中をやわらかく照らす。毛並みが金色に光って見える瞬間がある。その光の中で、きなこはひとつ大きく伸びをして、また目を閉じた。ゆっくりと上下するお腹。規則正しい呼吸の音。
こんな午後を、私は「まったりとした時間」と呼んでいる。何も起きない。何も解決しない。でもなぜか、夕方になるころには心がすこし軽くなっている。
猫と暮らすことで得たものは、たぶん「何もしない勇気」だ。タスクもなく、成果もなく、ただそこにある時間を受け取ること。きなこはずっとそれを知っていて、私はようやく、少しだけ追いついてきた気がしている。
今日も食事を終えて、コーヒーを一杯淹れた。きなこはもう夢の中にいる。カップを両手で包むと、ほんのりとした熱が手のひらに広がった。窓の外では欅がまた揺れていて、八月の光は相変わらず、この部屋に惜しみなく降り注いでいた。

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